岡本純子 炎上商法

世界一孤独な日本のオジサン
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日本のオジサンを世界一孤独ということにしたいオバサン

秘密の鞄 2018年8月28日

「日本のオジサンは世界一孤独である」ということを序盤から、各種データを紹介しつつ主張していくのだが、どうも強引な印象がした。というのは、人間関係にまつわるそれらデータにおいて、日本は確かに成績はよくないものの、ワーストであるものは一つもなかったからである。つまりこれらのデータは日本のオジサンが「世界一」孤独であることを証明していない。
揚げ足取りみたいなことを書いてしまったが、いくら客観的なデータを揃えたところで、その解釈が公平でないと意味がない。自分の主張に都合のいいように解釈を曲げてしまっては宝の持ち腐れ、であるどころか詐欺だし有害である。新聞とかがよくやる詭弁の手法だ。どうもこの書籍は、日本のオジサンを世界一孤独「ということにしたい」らしく、ところどころに恣意的な解釈が散見された。

それにオジサンに対してなぜか上から目線であるし、なぜか哀れみの視線を投げかけているのも不快。そもそも男を「オジサン」呼ばわりしているのが失礼だ。中年男性の経済効果を「オジノミクス」と表現しているくせに、女は「ウーマノミクス」と表記しているのには失笑してしまった。男性の著者が、特段な理由もなく「オバサン」と書けば非難されるのが昨今の風潮であるが、その逆は許されるのだろうか? というか、こういうジェンダーに関わる領域における感度の鈍さは、日本の政治家なら「いつものことだ」で済まされるのかもしれないが、社会学的なテーマの本を書く者としては致命的である。

最近の日本は孤独礼賛の風潮があるという指摘も的外れ。著者は「ぼっち」とか「おひとりさま」とかいう言葉に象徴されるような価値観や考え方を、孤独の美化と捕えているようだが、今日本で流行っているのは孤独の美化というよりかは、自虐だったり、孤独の受容だろう。「おひとりさま」を流行らせた上野千鶴子の書籍もテーマは孤独の受容だし。
後半になって、孤独にならないためのコミュニケーション術の指南に内容がうつり、鏡の前で笑顔のトレーニングとか出てきたあたりで、何にもわかってないなこのオバサン(失礼。でも人をオジサン呼ばわりしてるんだから怒りませんよね?)、と思った。オジサンと呼ばれるようになる年齢になって、人の輪に入るために愛想笑いの練習をするとか(キョロ充かよw)、それこそ悲惨な中年ではないか。

だいたい、一人でいるときの孤独しか扱っていないのが、孤独を半分しかわかっていない証拠だ。大勢の中にあってなお孤独である状況というのは往々にしてあるし、ときには一人でいる孤独よりよほど深刻だったりする。孤独なんてそんなに簡単に解消できやしない。というか孤独は人間の宿命だ。そこで無理をしてまで人とつながろうとしても孤独を深めるだけである(人とつながること自体はすごくいいことだと思うが)。結局、孤独を受け入れるのが一番楽で正しい方法なのだ。
で、なんでこのオバサン(失礼)はこんなに日本のオジサンを世界一孤独ということにしたいのか気になってググってみたところ、コミュニケーションストラテジストとかいうけったいな肩書が出てきた。
あーなるほどね、要するに人の孤独で飯を食っているのか、と納得した次第。でもだからって人の不安を煽るような5chのスレみたいな本書くのはやめて。

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著者自身が一番孤独では?

epi 2018年10月24日

中年男性をディスればいいという浅はかさを感じる。世の中には孤独な人と孤独じゃない人の2種類に分断できるわけじゃない。誰の心にも孤独はあるし、孤独のない人生こそストレスになる。
どなたかもレビューで書いていたけど、文面から伝わってくるのは著書が孤独なんだろうな、という思いしかない。おじさんのことをとやかく言う前に自己を見つめ直したらどうだろうか?

孤独は良くない、 などという「ビジネス」

LIME 2018年6月30日

孤独は良くない、などという「ビジネス」に騙されてはいけませんよ。

大人はひとり時間を大切にしましょう。そして、理性や客観性やお金の観点というだけではありません。

趣味にしろ、ひとりでやる自分の世界を持っている人は魅力的に映ります。自分の領域で自己表現ができるから、他人がどうこう関係なく自分で満足できる。仮に嫌なことがあっても、いい意味でその世界に逃げることができ、ストレスを発散できる。そんな顔というか場を持っていることは安心感や自信となり、態度や表情にもにじみ出てきます。

人とつるみすぎると、周りに合わせるから薄っぺらくなり没個性化しやすいのに対し、自分の世界があってそこで自己表現している人は、人間としての深みや個性が出てくるものです。

たとえばランチメイト症候群という言葉があり、職場でランチに誘われず、ひとりで食べている姿を見られるのが怖いという女性もいるそうです。しかし、ランチタイムくらい自分の好きなように過ごしたいと考えれば、新しい店を開拓したり、食事は早く済ませてマッサージに行ったり、ぶらりと書店に寄ったりするのも楽しいものです。

あるいは旅行でも美術展での鑑賞でも、他人とのおしゃべりに気を取られたり、連れの感性に引きずられないからこそ、自分だけの感じ方、感動を楽しむことができます。つまり感受性も、ひとりのときにこそ磨かれるのです。海外にいくと、ホームパーティやレストラン等でのパーティは普通です。友人と楽しい時間を過ごせ、人脈ができ、仕事にもプラスです。妻が夫のパーティー行きをおこったら、普通、一緒に行こうといいますよね。しかしさそっても日本人妻はきません。

でも、海外ではいいことがあって、あまりに、「妻が同伴しなかったり」、「うちの妻がケータリングホームパーティを拒否するんだよね」と、パーティで外国人婦人方にに愚痴ると、なんと、うちまで来て、「あなたの妻としての行動が、いかに、夫の行動を制限しているか」を滾々と妻に話してくれます。

海外を見た印象では、
1)日本人は妻の権限が強すぎる。
2)妻の行動が、夫の交際範囲を著しく障害している。
と感じています。

この著者は、
「日本の男性は世界基準からみて著しく孤独」、
「それは日本の男性のコミュニケーション能力が無能だから」
と結論付けていますが、海外基準からみて著しく違うのは日本の妻の方だと感じています。

作者の不安を投影した本

もみもみさん 2018年10月16日

まず、タイトルが人をバカにしていると思う。
心理学的に、人はだいたい2週間でどんな状況でも「慣れる」という。
ただし、どんな状況でもその人の幸不幸はそんなに変わらない。

慢性的な不幸感を抱えているのはこの本の作者自身で、それを都合良く他人に投影し、自分の不安感ではないと思いたいのだろう。

タイトルは面白いが、内容は企画倒れ

怪獣殿下 2018年5月7日

孤独こそがガン。それを説明する前半の視点は良いのですが、要は男性のコミュニケーションが女性よりも下手だということ。後半はその繰り返しの話が多いです。よくある、アイデア倒れの本、みたいな感じがしました。

炎上

言葉狩り

ポリコレ

自己肯定

非当事者による制裁(Third party punishment)

熊本地震に「不謹慎叩き」が蔓延する真の理由

2016年04月29日

人間の「本能的制裁欲求」が暴走を始めた

  • 熊本地震後、「不謹慎」をめぐる炎上事案が相次いでいる。タレントの発言(たぶん藤原紀香の火の国の神様もうやめて発言Instagramで500万円の寄付をしたことを明かした紗栄子)が不適切だ、売名行為だ、と批判し、「自粛」を求める人々がいる一方で、そうした「言葉狩り」に違和感を覚える人々もいる。こうも毎日、自分の主張を声高に叫び、誰かをやり玉にあげる風潮ばかりを見聞きすると、こんな疑問がわいてくる。「日本人は劣化したのか」と。
  • 今回は、「そもそも、炎上はなぜ起こるのか」について、科学的な視点も交えて掘り下げつつ、この問いかけの答えを探ってみたい。

炎上事件は世界にまん延している

  • 前回の記事で、ネット上での炎上事件は世界にまん延している、という話を書いたが、同様に、日本での炎上事案は加速度的に増え続けている。ソーシャルメディア上でのリスク対策など手掛けるエルテスによれば、炎上事案は一貫して右肩上がりで、2015年12月の件数は126件と、2014年1月の39件からほぼ3倍に上る。
  • ネット上で、「炎上」の二文字をみかけない日はなく、まさに、再生可能エネルギーのように、絶対に枯渇しない「ネット上の怒りのマグマ」。Internet outrage(激怒、暴力、暴行)と呼ばれるこの現象の奥底にあるものとは何か。過敏すぎないか?よほど常日頃から注視していないと炎上が毎日起きているなんてあり得ないぞ。ボヤ程度でも炎上か?
  • ネット炎上のほとんどのケースが、全く自分が被害者ではないのに、第三者の振る舞いや行動に対し、腹を立てて、制裁を加えようとする「Third party punishment」(非当事者による制裁)といわれるものだ。
  • 不倫の被害者ではない他人が、不倫の当事者を糾弾したり、被災者でもない人たちが、被災者に代わって、「不謹慎」と声を上げる、といったようなことだ。アメリカでは、この「非当事者による制裁」がネット上での「非寛容」の根っこにある、として、その分析・研究が進んでいる。なぜ、全く関係のない第三者が、怒りののろしを上げるのか。
  • そもそも、生物学的にみれば、自分に利害のないことで、他者に怒りを覚えるという行動はチンパンジーなどにも見られない人間特有のもので、生後8カ月の赤ん坊にさえ、そうした行為は出現するという。また、脳科学的に見ると、人は悪事をしたとみなす誰かを罰するときに、快感を覚える生物らしい。
  • 2004年8月の『Science』誌に発表された研究によれば、脳の動きを画像で見ると、人を罰するときに、脳の報酬系が活発化するのが確認された。つまり、心理学的に報われた、と感じるというわけだ。ドラマや映画で、悪者が成敗されることを願い、達成されれば、すっきりした気分になるのもそういった本能に基づく反応だろう。また、中世、近代の公開処刑の場で、処刑される人を全く知らない人々が、快哉を叫んだのも、同様の文脈で説明できる。
  • こうした「制裁」は人類学的にみても、「必要なもの」だった。裁判制度や警察制度も発達していない時代には、「悪人」は村や地域で独自に裁く必要があったからだ。まさに「村八分」は人間の進化の上で、彼らの「正義」と「秩序」を守るための社会制度だったのだ。

炎上事案は一貫して右肩上がりだ(エルテス調べ)

他人を罰するのは、自分の正義を示すため

  • “炎上書き込み”をする人の心は「本能的制裁欲求」に支配されている
  • 今年2月、イェール大学の研究者は、「人は、自分たちが信頼される人間であると証明するために他人を罰しようとする」という論文を発表した。クジャクの羽や鹿の角のように、自らの存在価値を誇示し、自分たちが正義であると声高に宣言するための行為だというのだ。
  • こうした人間の「本能的制裁欲求」がインターネットという怒りの集積・増幅装置に乗り、暴走を始めたというのが、現代の炎上のメカニズムではないか。特に、インターネットを通したコミュニケーションの持つ5つの特徴が、怒りの増殖を加速させている。
  1. 匿名性・・・本来、自分の利害とは関係ない制裁は、敵を作ることを意味し、復讐されて、自分の生存を脅かす可能性もある危険を伴う行為だったわけだが、インターネット上では、自分の正体を明かすことなく、報復を恐れることもなく「制裁」ができるようになった。
  2. 即時性・・・昔はそうした憤りを感じても、その発露の場はほとんどなかった。通常、そうした怒りはしばらくすれば、忘れてしまったり、収まるものだが、インターネットのように瞬時に書き込め、送ることができることにより、瞬間的な怒りがそのまま発信されてしまうようになった。
  3. 書き言葉・・・通常、書き言葉は話し言葉より直接的になる傾向が強い。相手と面と向かって話す場合は、その感情に気遣い、マイルドな表現になるが、顔も合わせずに書いて送りつけるメッセージは語気が強いものになりやすい。
  4. 距離・・・会って話してみたら、「意外にいい人だった」。こういう経験はあるかもしれない。会うこともなく、対面で相手の言い分も聞けないネット上では、誰かの、表層的な行動や言動の「異形」を見た時、本能的に不快感を覚え、「排除すべき」という直感が働きがちだ。
  5. 群集心理・・・人は誰でも誰かに認められたい。「正義の味方」になりたい。自分自身を「正義」と信じ、「悪人」と思い込む相手に対し、「制裁」を加えようと書き込むと、同じような考え方が他にも大勢いて、そういう人たちから同調を得ることができる。強い自己肯定感を覚え、孤独から解放された気持ちを感じられる。

ネットは現代の公開処刑場になっている

  • まさに、インターネット、ソーシャルメディアは、集団ヒステリアに満ちた、現代の公開処刑場と化しているというわけだ。つまりは、人間の本質はそれほど変わってはいないが、インターネットという高速増殖炉によって、その特質がさらに顕在化しているということなのかもしれない。
  • また、4月に発売された『ネット炎上の研究』という本によれば、ネット上にまん延しているかのように見える炎上に実際に参加しているのはネット利用者の0.5%でしかない、という衝撃の結果だった。
  • 一つの炎上事件あたりでは0.00X%に過ぎず、人数では数千人程度だ。その9割以上が一言感想を述べる程度で、当事者に直接攻撃をする、複数回書き込みをする人などはほんの一部、つまり、人数にすれば数十人~数百人に過ぎないというのである。
  • あたかも、ネット上の多くの人が、クレーマー化しているというような状態には程遠いというわけだ。前述のエルテスの菅原貴弘社長も、「自分の正義をふりかざし、人を一方的に糾弾するような人たちの割合は、昔から一定の確率で変わらないが、ネットによって、顕在化するようになっただけ」と分析する。
    つまり、結論的に言えば、日本人だけが劣化している、とは言い切れないということになる。

「折り合いのつけ方」を学ぶには?

  • 人との「折り合いのつけ方」を学ぶ機会が少なくなっている可能性がある
  • ただ、核家族化や貧困、孤独、など地域や家族のつながりが薄れる中で、現代人が人との「折り合いのつけ方」を学ぶ機会は少なくなっている。異なる価値観を持つ人々と直接的に触れ合いながら、人はお互いを思いやるコミュニケーションを学んでいく。
  • 一方で、歴史的に、同調圧力が強い日本では、アメリカのように、ディベートなどの手段を通して、意見の異なる相手と有機的、建設的に対峙し、議論を交わしていく伝統がないため、考え方の違う他者に対して、一方的に自分の主張を押し付けたり、高圧的な物言いで相手を叩きのめすものだと思い込んでいる人も少なくない(最近のドナルド・トランプ氏の台頭を見る限り、アメリカの価値観も変容を迎えているのかもしれないが・・・)。
  • ITリテラシー教育の必要性が叫ばれるが、そもそも、もっと基本的なコミュニケーションのルールや共感力を学ぶ機会が、日本人には絶対的に必要なのではないだろうか。