李容洙と
高校教師時代のホンダ。
少年時代のホンダ(左端)。家族と共に撮影。
経歴
祖父母が半島人で日本に帰化した日本出身の日系三世。1941年6月17日、太平洋戦争開戦直前にカリフォルニア州サンフランシスコ近郊のウォルナット・グローブに食料品店を営む両親のもとで長男として生まれた。後に弟と妹が生まれる。
翌1942年に太平洋戦争が勃発した中、利敵行為を防ぐために日系米国人を強制的に収容する政府の政策により、コロラド州の日系人強制収容所に送られ、幼少期の14ヶ月間を家族とともに収容所で過ごした。1953年に故郷のカリフォルニア州に戻り、イチゴ 農場に転じた両親とサンノゼに住み、小作農として働く。
州立サンノゼ大学で生命科学とスペイン語を専攻。在学中の1965年、ジョン・F・ケネディ大統領の発展途上国援助のためのボランティア派遣計画に応じて大学での研究を中断し、南米のエルサルバドルで”US peace corps volunteer”(アメリカ平和部隊)として2年間奉仕活動をおこなう。
- 1968年に卒業。卒業後は理科教師になり、2つの公立学校で校長を務めた。スタンフォード大学で教育研究も行う。1974年に修士号を取得。
- 1971年 、ノーマン・ミネタ市長よりサンノゼ市計画委員会に任命される。1981年、同市教育委員、1990年にサンタクララ郡委員に選出。
- 1996年にカリフォルニア州下院議会議員に選出、2001年まで務めた。
- 1999年、1997年に成立した第二次世界大戦中のナチスや日本の強制労働の賠償を可能にするカリフォルニア州の州法ヘイデン法に基づいて、在米日本企業に対日戦時賠償要求訴訟を提訴。中国・韓国人を不当に安く戦時徴用したことに対し1兆ドル(当時120兆円)を請求した。なお、このヘイデン法は後に連邦最高裁で違憲と判定された。
- 同年8月4日、ホンダが提案した「対日戦後補償要求」決議(AGR-27)がカリフォルニア州議会で可決。同決議では日本政府に対し、南京大虐殺や慰安婦問題などの第二次世界大戦中の戦争犯罪に対する明確な謝罪と犠牲者への賠償を要求している。
- 2001年からカリフォルニア選出の下院議員を務めている。2005年2月、民主党全国委員会副議長に選出。
- 2006年、イスラム教徒の下院議員が私的な就任記念パーティにおいてコーランに手を置いて宣誓する記念写真を撮影しようとして、保守系政治家らに「キリスト教の聖書に手を当てて宣誓する米議会の伝統に反する」と非難された際、「米国は多様性を受け入れなければならない」と反論する公開書簡を発表。
- 2007年より下院歳出委員会に所属。アジア太平洋地域出身の米国議員総会議長に就任。
- 2007年1月末 米下院議員との共同署名で下院に慰安婦問題に対する日本政府の謝罪要求決議案を提出。
- 同年5月4日、終戦直後にアメリカの進駐軍が日本の政府や旧軍当局に売春婦の調達や売春施設である特殊慰安施設協会の開設を許可した書類が発見されたとAP通信が4日付で報じたことを受け、議会調査局に米軍についての調査を依頼。
- 2007年8月、すでに1993年に詐欺罪で指名手配をうけながら米民主党、特にヒラリー・クリントンの資金源として暗躍していた中国系アメリカ人ノーマン・スー(Norman Hsu、徐詠芫)の逮捕後、スーから献金を受けていたホンダは、公開の謝罪と資金返還を余儀なくされた。なお、ノーマン・スー事件は、ヒラリーの大統領指名選敗北の主因となったとされる。
- 2009年に成立したバラク・オバマ政権では教育長官のポストに強い意欲を見せていたが、オバマはシカゴ市教育長のアーン・ダンカンを教育長官に指名したため、就任は実現しなかった。
Background
His grandparents are from Korea, and obtained Japanese citizenship after they emigrated from korea to Japan. His parents moved to the California, USA and gave him a birth on June 17,1941, right before the WW2 broke out. A third generation Japanese American (“sansei”), Honda was born in Walnut Grove, California, in 1941. When he was one year old, he and his family were sent to Camp Amache, a Japanese American internment camp in southeastern Colorado. In 1953 his family returned to California, where they became strawberry sharecroppers in Blossom Valley in San Jose.
Honda started at Andrew P. Hill High School, then transferred to, and graduated from, San Josė High Academy. He entered San Josė State University, but interrupted his studies from 1965 to 1967 to serve in the United States Peace Corps in El Salvador, where he learned to speak Spanish. He returned to San Jose State, where in 1968 he received a bachelor’s degree in Biological Sciences and Spanish. He earned a master’s degree in Education from San Jose State in 1974. In his 30-year career as an educator, Honda was a science teacher, a principal at two public schools, a school board member, and he conducted educational research at Stanford University.
Honda’s wife, Jeanne, was a kindergarten teacher at Baldwin Elementary School in San José. She passed away in February 2004. He has two children: Mark, an aerospace engineer, living in Torrence, and Michelle, a marketing and communications manager, in San Jose. Michelle is the mother of one daughter and two sons. In February 2015, Honda’s announcement that he is a “proud jichan”, or grandfather of his transgender granddaughter Malisa gained regional, national, and international coverage.