1990年台半ば、ビル・クリントン元大統領が北朝鮮を攻撃していてくれたら今頃・・・

北朝鮮の人権状況を非難 国連で決議案を採択(171115)

  • 核・ミサイル開発を進める北朝鮮の人権状況について、日本などが提出した非難決議案が国連総会で採択されました。
  • 日本やEU(ヨーロッパ連合)などが提出した決議案は、北朝鮮に対して「食料や医療が不足するなか、核・ミサイル開発に資源を費やしている」として人権侵害を非難する内容が盛り込まれました。
  • 北朝鮮・慈成男(チャ・ソンナム)国連大使「アメリカによる野蛮な制裁こそが卑劣な人権侵害であり大虐殺だ」
  • 北朝鮮の慈成男国連大使は「断固拒否する」と反論し、退席しました。決議案は無投票で採択されましたが、中国やロシアは「特定の国の人権状況を決議すべきではない」と主張し、採択からの離脱を宣言するなど北朝鮮問題に対する足並みの乱れが改めて浮き彫りとなりました。

自宅付近で“待ち伏せ” めぐみさん拉致の真実

  • あの日から40年の月日が流れた。当時、中学1年生だった横田めぐみさんが40年前の15日、北朝鮮に拉致された。めぐみさんはどのように連れ去られたのか、40年前の真実に迫る。
  • 残酷な時の流れ。当時13歳だった横田めぐみさんも今や53歳。父・滋さんはすっかり年老いてしまった。14日が85歳の誕生日。つまり40年前の自分の誕生日の翌日、娘を連れ去られたことになる。
  • めぐみさんの母・横田早紀江さん(81)「この日のことは何十年経っても思い出したくない。何とも言いようがない、体中が戦慄しているというか…」
  • それは、いつものような放課後だったはずだ。当時、一家が住んでいた新潟市。めぐみさんは、いつものように中学校を出て、いつものように友達と別れ、いつものように丁字路に差し掛かった。この角を曲がれば自宅という丁字路。ところが、警察犬を使った捜索では、めぐみさんの足取りはこの丁字路で途絶えた。
  • これは拉致直後とみられる写真。北朝鮮側の説明によると、その日、任務を遂行し、帰ろうとしていた工作員がめぐみさんと遭遇。やむなく連れてきたという。拉致は計画的ではなく、突発的な行為であった。めぐみさんは40時間もの間、船の荷室に監禁され、北朝鮮に連れて行かれたことが、その後の証言で明らかになった。助けを求めて泣き叫び、ドアや壁を引っかいた。結果、めぐみさんの指は血だらけで、爪が剥がれそうになったという。
  • 一筋の光明が差したかに見えたのは2002年。だが、北朝鮮は拉致を認め、5人を帰国させる一方で、8人の死亡を通告。めぐみさんも死亡とされたうちの1人だった。ただし、北朝鮮の情報には矛盾点も多く、それが逆にめぐみさんの生存を裏付けている。そんな想いが2人を支えている。
  • めぐみさんの母・横田早紀江さん「もう長すぎて。年が53歳なんてなったら想像がつかない。家族にとっては『あの、めぐみちゃんだ。よかったね』ということを確認できる間に、ただ1時間でもいいから分かる間に会いたいなと思っております」

「なぜ救出できないの」 拉致40年にめぐみさん母

  • 1977年に新潟市立中1年の横田めぐみさん=失踪当時(13)=が北朝鮮に拉致され15日で40年となるのを受け、後半生を娘の救出活動に費やしてきた父滋さん(85)と母早紀江さん(81)が同日、川崎市の自宅マンションで記者会見した。早紀江さんは「すぐ近くの国にいるのに、どうしてこんなに長い年月、助けてあげられないんだろう」と娘と引き裂かれた苦しみを打ち明けた。