店の人の適当さに感動 「生きづらさ」を 生きる 韓国へ「解毒」の旅 作家・「こわれ者の祭典」 名誉会長 雨宮処凛

店の人の適当さに感動

「生きづらさ」を生きる

韓国へ「解毒」の旅

作家・「こわれ者の祭典」名誉会長雨宮処凛

旅に出ます探さないでください。 Tシャツ
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時々旅に出るようにしている。なんとなく自分がささくれた心の中で舌打ちをしてしまいそうな時、「私には旅が足りないのだと思う。知らない国の風に吹かれ、知らない景色を見知らない言語の中でほっつき歩きたい。そうして旅先で開され、ぽったくられ、日本語以外の言語ができない自分がいかに何もできないちっぽけな役立たずなのかを再確認したい。そんな行為で、自分の中の毒素の前兆がみるみる溶けていくことを知っているからだ。

ということで、1月はじめ、国に行ってきたり、ただた韓国の美味しいものを食べまくった。2泊3日の滞在で、1日6食、合計で20食近く食べた。そんな韓国はまさに「解のだった。なんといっても、韓国の人々が脱力しまくっているのが素晴らしい。特に市場や屋台は「脱力人間」博覧会だ。

自分の店が営業中だというのにレジに突っ伏して熟睡しているお兄ちゃん、出前のご飯を食べているおばちゃん、果てはその場で歯を磨いているおじさんまでいる。「人からどう見られるか」とか「客だからちゃんとしなくては」なんて意識が欠片もない人たちの自由すぎる振る舞い。

そんな中でも、初日に訪れた食堂は「客が最託辺」という揺るぎないポリシーに基づく営業方針を貫いており、非常に感銘を受けた。

まず、呼び込みはしつこいのに、いったん店に入るとおばちゃんはものすごく雑な扱いに変わる。頼んだユッケジャンとイカ炒めは美味しかったものの、注文の時点で既にケンカ。極めつけは、「お店の従業員たちの食事景」だった。

店の一角で何人かがかわるがわ食事を取るのだが、なんだかそこっちの方が明らかに美味しそうなのだ。特に客に出す炊飯器とは別炊飯器のご飯を食べていたのだ

店の人の方が明らかに炊きそこまではいいのだが、食事後が問題だった。店の人たちは食べ終わると、残ったご飯を当たり前のように「客に出す方の炊飯「器」に投入。食べ残した人は、みんな当然のように私たちに出される方の炊飯器に余ったご飯を戻していく。

その光景を見て、私は感動に打ち震えていた。少し前、日本では高級料亭が余った料理を使い回しなどとして問題になったわけだが、お隣韓国のこの店では、従業員の食べ残しのご飯が堂々と客に提供されているわけである。しかも悪気もなく。

かたや日本では、いつからか「消費者こそが一番偉い」という価値観が幅をきかせている。ちょっとしたことでクレームをつけたりす社会は、どうしたって殺伐としてしまう。

しかし、「お金を払って残飯を「食べさせられる」という貴重な経して、思った。世の中、なんかもっと適当でいいんじゃないかな、と。少なくとも、私はこの現場を目撃して目くじらを立てるような人とはお友達になりたくない。

今日もあの店では、店の人の食べ残しご飯が出されている。そう思うと、なんだか笑いが込み上げてくる。また韓国に行ったら、私きっとあの店に行くだろう。