皇達也 テレビ朝日

ジャニー氏と麻雀仲間だった皇達也取締役(故人)の時代からの呪縛

テレビ朝日関係者から情報提供が届いた。

7日のジャニーズ会見を受けて、テレ朝系のサタデーステーションとサンデーライブの両番組に対し、「ジャニーズ会見について触れるな」と、テレ朝上層部から指令がくだっていたとのこと。会見を扱わなかったのは現場判断ではなかったことになる。特にサンデーライブは新社長を務める東山紀之がMCだったが、ジャニーズ会見前に降板しており、10日の放送内容が注目されていた。

テレ朝関係者は「いまだに社内ではなんとなく触れたらいけない雰囲気がある」という。

こうしたテレ朝上層部の対応が逆に企業リスクになるとなぜ理解できないのだろう。テレ朝の天皇と呼ばれ、ジャニー氏と麻雀仲間だった皇達也取締役(故人)の時代からの呪縛が解けていないのか。

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元テレビ朝日取締役の皇達也さん死去、79歳

「欽ちゃんのどこまでやるの!」など手掛ける

2021年03月21日

複数の関係者によると、入院先の病院で19日夜に容体が急変。数年前に妻に先立たれてから1人暮らしをしていた。酒やたばこはやらず、週1度は病院で定期検診をするほど健康に気を付けていたという。

しかし、昨年12月28日頃、新型コロナウイルスに感染。当時、病床がひっ迫しており自宅療養をしていたが、正月に容体が急変したため救急搬送され、手厚い治療を受けた結果、回復した。今月末に退院予定だったが、帰らぬ人となった。

普段から社員や知人に「コロナ禍で大変だろうけれど、自分の人生は自分で切り開け。俺もバックアップするから」と声を掛けるなど、最期まで人情深い人だったという。

皇さんは慶大卒業後、64年にNET(現テレビ朝日)に入社。76年には萩本欽一(79)の「欽ちゃんのどこまでやるの!」、キャンディーズと伊東四朗(83)、小松政夫さん(享年78)の「みごろ!たべごろ!笑いごろ!」で「電線音頭」を大ヒットさせた。

さらに、82年にタモリ(75)の「タモリ倶楽部」、85年には「ミュージックステーション」、ビートたけし(74)の「ビートたけしのスポーツ大将」などを創り上げた。

2001年にテレビ朝日サービス社長、06年にジャパン・コンテンツ・コンサルティングの社長に就任。豪快な一面を持ちながら、常にテレビ界の行く末を心配していたという。

バラエティー番組「欽ちゃんのどこまでやるの!」などを手掛けた元テレビ朝日の取締役・編成制作局長でジャパン・コンテンツ・コンサルティング社長の皇達也(すめらぎ・たつや)さんが20日朝、誤嚥性肺炎で東京都内の病院で死去したことが21日、分かった。79歳だった。近く家族葬が執り行われる予定で、喪主とお別れの会は未定。

「ヒット番組に名プロデューサーあり」といわれた昭和の時代

2021年03月30日

元テレビ朝日の名プロデューサー・皇達也さんが20日、亡くなった。享年79。

「欽ちゃんのどこまでやるの!」や「タモリ倶楽部」などのバラエティーから「ミュージックステーション」まで次々とヒットさせた。テレ朝を代表するプロデューサーとして業界にも名を轟かせていた。

全盛期に取材したことがあるが、声は大きく威圧感があった。3年ほど前、皇氏馴染みの店で遭遇した。昔と変わらない豪快な飲み方。大声で下ネタも絡めて女の子をからかう姿は「昔はこんなテレビマンが飲んで騒いでいたな」と懐かしかった。数年前に奥さんを亡くし慣れぬ独り暮らし。寂しさを紛らわすように飲み歩いていたと聞いた。

皇氏しかり、各局に名プロデューサーがいた昭和。「ヒット番組に名プロデューサーあり」といわれ局を代表する顔だった。

仕事ができる男はモテる。女優が監督に惚れて結婚するように、テレビ局のプロデューサーと歌手の結婚も珍しくなかった。古くは畠山みどりがフジの音楽番組のプロデューサーと。麻丘めぐみも続いた。「民謡界の百恵ちゃん」と呼ばれた金沢明子もフジのディレクターと結婚した。麻丘も金沢も後に離婚して騒がれた。夫の浮気が原因と喧伝された。

金沢の離婚を巡り郊外にあった金沢の実家を取材した。夫に対して怒りを抑えているのが言葉の端々からわかった。芸能人を妻に迎えたことでプロデューサーも取材対象者となった。

衝撃的なスキャンダルもあった。

「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」など数々の名ドラマをプロデュースしたTBSの久世光彦に発覚した愛人問題だ。

久世作品のひとつ「ムー一族」に起用されていた20代前半の新人女優のNとの関係を樹木希林がパーティーの挨拶で暴露したのだ。

しかも、Nはすでに妊娠8カ月。久世の子を身ごもっていた。樹木の爆弾発言に会場は騒然。出席者の沢田研二は「バカヤロー、やめろ、そんな話」と出ていったことが伝えられた。取材した当時の話を再現する。

「番組内ではほとんどの人が知っていた話。隠している久世さんの姿が苦しそうで、少しでも気持ちを軽くしてやろうという希林さんの洒落た配慮だった。好きなプロデューサーだから言ったのだと思う」(番組関係者)

久世もあっさり事実を認めた。出産準備のため新潟の実家に帰っていたNの直撃に行った。ドア越しに対応した「親戚の者」という女性は「何も知らない」と丁重に断った。

ちなみに、「親戚の者」という人が昔はよく取材対応に出てくることがあった。そんなに親戚の人が家にいて対応するものだろうかという素朴な疑問も湧いたが、案外、母親だったりした。

思わぬ形で愛人が発覚した久世は、事実とは認めたが「認知しない」と伝えられていた。結局、久世は妻と離婚。Nと再婚した。しばらくして久世はTBSを退社。フリーとして番組を作るだけでなく、エッセイストとして多くの作品を残した。

自由に仕事ができる環境があったが、実力者揃いだったプロデューサーたち。退社後も大半の人はフリーとして活躍していた。 =つづく

TBSの名プロデューサーだった久世光彦氏