島倉千代子の借金問題に関わったカリスマ占い師の細木数子
島倉千代子(1938年生まれ)は日本の演歌・歌謡曲の有名歌手で、代表曲に「東京だョおっ母さん」や「からたち日記」があります。1955年にデビューし、多くのヒット曲を持ち、紅白歌合戦にも複数回出演しました。晩年は多額の借金問題を抱えたことも知られています。
この借金問題の解決に関わったのがカリスマ占い師の細木数子でした。ある公演で島倉が失明の危機に遭い、その治療をした眼科医とのトラブルで約13億円の借金を作ってしまった際、細木数子が借金整理に乗り出し、その借金を3億円まで圧縮。債権者の代理となり借金の返済に尽力しました。借金返済後も島倉は細木の要求に応え、かなりの影響力を細木に持たれていたといいます。島倉は細木の指示で地方のクラブやキャバレーでも歌い、借金返済に苦労しながらも活動を続けました。
この二人の関係は、島倉千代子のキャリアの後半において細木数子の経済的な支援と影響が深かったことを示しています。
中国の易学を元に独自に編み出した「六星占術」の創始者、細木数子
1938年生まれで2021年に83歳で亡くなった日本の作家、占術家、宗教家です。中国の易学を元に独自に編み出した「六星占術」の創始者として知られています。テレビ出演での率直な発言が広く話題となりました。東京都渋谷区出身で、占い師として多くの著名人の運勢や将来を予言し、時に的中や逸れた予言もありました。彼女の占術は娘で養女の細木かおりがその後継者として引き継ぎ、現在も六星占術の普及に努めています。細木数子は多方面で実業家としても活動していましたが、晩年は控えめな活動となりました。なお、占い内容の的中率に対する賛否はありつつも、日本における占術界の大きな影響力を持った人物です。
細木数子の過去
父親は暴力団に近い政治的グループに属しており、その後カフェを経営。細木数子は母親が経営していた実家が許可なく売春をしていた店(青線地帯)で、中学1年生の頃から店番や接客、客引きをしていました。17歳で水商売の世界に入り、20歳で銀座にクラブを開業しました。高校は中退しています。1963年に結婚しましたが、3ヵ月で離婚。その後、島倉千代子の巨額の借金を解決するなど、芸能マネージャー業も経験しています。1980年代に「六星占術」で大ブレイクし、テレビでも活躍しましたが、晩年は養女に後継を譲り静かに過ごしました。2021年に83歳で死去しています
島倉千代子
1938年3月30日生まれで、2013年11月8日に亡くなった日本の演歌・歌謡曲歌手です。東京都品川区北品川出身で、愛称は「お千代さん」として親しまれました。1955年に歌手デビューし、「この世の花」や「東京だョおっ母さん」、「からたち日記」、「人生いろいろ」など多数のヒット曲を持ち、長い歌手人生を送りました。彼女は1957年にNHK紅白歌合戦に初出場し、その後も紅白のトリなど大役を務めたほか、1950年代から1980年代まで数多くのヒット曲を連発しました。人生は波乱に満ちており、左手のけがや結婚・離婚、病気などの苦難を乗り越えながら歌手活動を続けました。彼女は歌唱力に定評があり、ステージで口パクを一度もせずに60年近く歌い続けたことでも知られます。
主なエピソードとして、美空ひばりとは公私にわたり深い関係があり、紅白歌合戦の場面や病気見舞いなどでの交流が伝えられています。また、歌手としての栄光の裏に家庭や健康面での困難も多くあったことが知られています。
島倉千代子は昭和歌謡の巨匠・作曲家に支えられ、昭和歌謡界を代表する歌手の一人として長く愛されました。
細木数子の絶頂期に「週刊現代」で連載され、彼女の素顔やテレビ降板に至る経緯をルポルタージュした作品です。2006年に初刊行され、加筆・修正のうえ文庫化されました。細木数子のテレビにおける影響力やその後の失墜までを描いています。
細木数子が70歳のときに書かれ、彼女の波乱に満ちた生い立ちや人生の様々なエピソードを詳細に追っています。内容は、細木が妻妾同居の家に生まれたこと、中学1年生でポン引きに立っていたこと、恋愛や結婚の失敗、クラブのママや暴力団組長の姐さん、負債歌手の後見人など多彩な経歴、さらに占術本のパクリ問題や大物思想家の親族との婚姻訴訟、墓石・仏壇販売での蓄財、テレビでの恫喝や罵倒を通じて「視聴率の女王」として君臨した経緯も含まれています。
この本は、細木数子の絶頂期に「週刊現代」で連載されたもので、6億円の損害賠償訴訟を受けながらもテレビ降板に至った過程を描いた渾身のルポルタージュです。著者の溝口敦はノンフィクション作家・ジャーナリストであり、細木数子の多面的な人物像を掘り下げています。
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