佐野亜裕美 2020年8月5日 仕事を再開して二か月

佐野亜裕美
2020年8月5日
仕事を再開して二か月。
少しずつ作業ペースを取り戻してきたのと同時に、テレビ業界ってこういう感じだった、というネガティブな感覚も戻ってきて、自分の人生を大きく変えた出来事を思い出したので、記憶の整理と自戒のために文章にしてみようと思う。(少し長くなります)
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TBSに入社して、ドラマ志望だったけどはじめはドラマにはいけず、ドラマ行きたいですと言い続けて2年、25歳の時、偶然チャンスが舞い込み異動できることになった。
一番下の助監督として初めて入った番組で歓迎会を開いてもらい、六本木の居酒屋でかなり長いこと皆で飲み、大先輩のスタッフ(40代男性)が二軒目に行くというので、かなり酔っ払っていたけどついていき、ラーメンにも付き合い、三軒目はその先輩と私と二人きりになっていた。
酔ってたし疲れたし帰りたかったけど、新人だしドラマの礼儀とか慣習とかわからないし、頑張って付き合わなきゃと気合いで笑っていたのをよく覚えている。
よしじゃあもう一軒と言われ、ふらふらの中なぜかタクシーに乗せられ、着いた先はラブホテルの前だった。嘘だろ?と思った。
入ったばかりの新人、美人でも可愛くもない、入社早々に結婚したので既婚者だったし、なぜ私が?とびっくりした。とにかくここから逃げなきゃと思って、走りにくい変なブーツを履いていることを心底後悔しながらタクシーの右側のドアを無理やり開けて、ダッシュで逃げた。真冬で外は寒くて、でも脱いだ上着を着る時間を取るのすら怖くて、家に向かって猛ダッシュした。徒歩通勤するために六本木に住んでいでよかった、と思った。帰らなきゃと思った。誰かに助けを求める余裕なんかなくて、とにかく家に向かった。家について急いで鍵をかけて、文字通り腰が抜けた。
その時の私の心を支配していたのは、明日からどうしよう、ということだった。せっかく入れたドラマ部、夢への第一歩。追い出されたらどうしよう、どうしようと思いながら、一睡もできず朝を迎えて、当時の上司に電話をして状況を伝えた。
その上司はとても真摯に話をきいてくれたけれど、結果私に与えられた選択肢は、その人は番組に残らざるをえないから、私自身が番組を抜けるか抜けないか、というものだった。
ドラマを諦められなくて、番組に残ることを選んだ。謝罪もなかった。なにも起きなかったことにされたから、なにも起きなかったんだと思うようにした。できるだけその人の顔を見ないようにしながら毎日を過ごした。それでも近くに行かなければならない時は体がこわばったし、心が死んでいくのを感じた。
二軒目についていった自分を深く呪った。がんばって笑った自分を恥じた。罪悪感でいっぱいだった。そんな風に、ホテルに連れ込めると思わせてしまった、そう見せてしまった自分が悪いと思った。
「この世界で生き残るために、私はおじさんになりたい。おじさんになろう」
心に決めた。
身体のラインがはっきりする服は着ない。ヒールもスカート
も履かない。よく飲みよく喋り、決して性的対象にはならな*いおじさんみたいな女。女ではなくただの仲間になれるよ
う、浮かないよう、おじさんの中にいるおじさんみたいな女になろう、そう決めてそう振る舞った。
*後輩がセクハラにあった話を聞けば、自分はもうそこから離
れたから大丈夫とどこか遠い話のように聞いていた。かわいそうだと思ったけどそれ以上踏み込めなかった。なかったことにした自分の経験にまた近付くのが怖かった。
30歳になった時、ようやく若い女じゃなくなったと安心した。
今ならはっきりわかる。私は大きく道を間違えた。戦わなければならない時に戦わなかった。私がもっとちゃんと戦っていれば、その後に後輩が続くことはなかったかもしれない。同じように苦しむ仲間を減らせたかもしれない。だけど自分にはそれができなかった。「おじさん」になって、生き延びるのに精一杯だった。
いま37歳。会社も辞め、新しい職場に本当にあたたかく迎えてもらい、自由に楽しく仕事をさせてもらっている。だからこそ今私は、いろいろなハラスメントや、理不尽、不平等に、きちんと大きな声をあげていかなきゃいけない。どんなにうざがられても、おばさんは引っ込んでろよと言われても、戦わなければならない。そして、乗り越えた先に自由に生きる女性の物語を作りたい。
それが、あの時自分かわいさに口をつぐんでしまった私にできる唯一の贖罪であるはずだ。