- アイヌのことを蒸し返す人は中韓が多い。
- 利益があるんだろうね。
山口敏太郎 2ch / Twitter / Google / Youtube / okwave
niponnianipponさん
- ときどき私の愛読紙『東スポ(夕刊紙・東京スポーツ)』に氏の解説が掲載されます。
- あるとき『東スポ』に氏に鑑定依頼されてきた秘蔵写真で「妖精の写真」と氏の解説が載りました。
- が、どう見ても「妖精の写真」には見えず、ネガが写真のキズじゃないかと、氏のブログの掲示板に意見を書きましたが、「どうせエンタメですから」と丁寧に返答していただきました。
- 『東スポ』の記事にまともに反応して意見を送るほうも送るほうと思いますが、氏の確信犯的な態度に好感を覚えた記憶があります。
●更新日 11/02●
忘れてはいけない日本の民族紛争 シャクシャインの乱
寛文年間(1661~1673)、北海道のシベチャリチャシで、シャクシャインの乱と呼ばれる大規模な「戦(いくさ)」があった。
「シベチャリ」とはアイヌ語でシベチャリ川(静内川)流域の場所のことを言う。「チャシ」とは同じくアイヌ語で砦の意味であり、日本語にすればシベチャリ砦とでも言えるだろうか。
シベチャリには、シャクシャインが首長のメナシクル(アイヌ語で東方の人びとの意味。)と、オニビシが首長のシュムクル(アイヌ語で西方の人々の意味)の二つのグループがシベチャリ川流域の領分を巡って長く対立していた。
抗争により先代首長が死亡し、副首長から新首長になったのがシャクシャインだ。松前藩の仲介によって1度は和睦したメナシクルとシュムクルだったが、寛文年間には再び関係が悪化。寛文8年(1668)、オニビシがシャクシャイン側に殺されるという事件が起きる。これにより、以前より松前藩に近いシュムクル側は報復を決意。松前藩に武器、兵糧の援助を求める。
しかし、松前藩はこの対立が、やがて和人(日本人)を巻き込む戦いにまで拡大することを以前より恐れていたため、この申し出を拒否する。そして、まったく偶然だが、シュムクルの使者は松前藩からの帰路病死してしまう。
ところが、これが松前藩の毒殺によるものとの噂が広まった。すでにアイヌには、不当な交易や搾取等で和人への不満がたまっていたから、この噂が信憑性を持って広まったのだろう。この出来事によって、倭人への怒りが爆発することになった。
メナシクルとシュムクルは争いをやめ、シャクシャインがリーダーとなり、蝦夷全域のアイヌ民族へ、ともに松前藩と戦うよう協力を呼びかけた。ついに、松前藩が恐れたアイヌの、和人への争いが始まったのだ。
1669年(寛文9) 6月、シャクシャイン指揮の下、アイヌ側は蜂起する。これがシャクシャインの乱である。
松前藩は幕府へ援軍を要請。幕府は東北諸藩へ支援を命じ、事態の収拾に努めた。アイヌの蜂起は各地で起きたが、幕府側との物量の差はいかんともしがたく、アイヌ側は次第に追い詰められてゆく。アイヌ側にとって痛かったのは、渡島半島のアイヌとの連絡を分断され、協力が得られなかったことが挙げられる。さらに松前藩は、幕府や東北諸藩の援軍により、多数の鉄砲を用意できたことがいっそうアイヌ側に打撃を与えた。
戦況が不利になる中、シャクシャインはシベチャリ方面まで撤退、奥地での長期戦に備える。松前藩は戦いの長期化を恐れ、シャクシャインに和睦を申し出た。シャクシャインは一度これを拒否するが、息子の勧めもあり、最終的に応じることにした。シャクシャインは和睦のためピポク(現在の新冠町)の松前藩陣営を訪れる。しかし、これは松前藩の罠だったのだ。
酒宴の場にはひそかに武士達が控えていて、ついにシャクシャインは殺されてしまう。1669年(寛文9)10月23日のことである。
この時、シャクシャインとともにピポクで殺害されたアイヌは74人とされている。リーダーを失ったアイヌ軍を松前藩は間髪入れず攻撃する。翌日にはシャクシャインのチャシも焼き払われる。こうして、蜂起は次々と鎮圧されていき、約4ヶ月に渡るシャクシャインの乱は終わった。
この戦いの後、松前藩は蝦夷地の支配地域を拡大し、同時にアイヌを次々と支配下に治めてゆくことになる。シャクシャインの乱は、太平の世が始まっていた時代の大規模な争いであり、近代に日本で起きた異民族同士の戦いなのだ。
忘れてはいけない史実としてここに紹介しておきたい。