欧米の植民地支配時代に「人種や民族の実情を無視して」国境を決めた
南アジアの国境は主に欧米の植民地支配時代に決められたもので、多くが人種や民族の実情を無視した画一的な線引きです。例えば、インドとパキスタン、そして中国を巻き込んだカシミール地方の国境線は、1914年にイギリスの大英帝国が影響力を持つ中で決められましたが、中国はこれを承認しておらず、現在も領有権争いが続いています。このように、民族構成や歴史的背景を無視した国境線がもとで、地域紛争が絶えません。アフリカ大陸も同様に、1884~1885年のベルリン会議で欧米列強が民族や宗教の実態を考慮せずに引いた国境が原因で、多数の内戦や民族対立が発生しています。これが南アジアとアフリカで紛争が絶えない主要な理由とされています。南アジアでもネパールと中国、ブータンと中国の間などにも未確定国境が存在し、将来的な地図変更の可能性も示唆されています。
南アジアの境界が欧米人によって民族無視で決定されたことで発生した主な問題や背景は以下の通りです。
- カシミール問題:1947年のインド・パキスタン分離独立時に複数の国が領有権を主張し、インド、パキスタン、中国が絡む複雑な状況となり紛争が継続。
- カシミール以外でもネパール・チベット(中国)国境やブータンと中国の国境に未確定地域が存在。
- これらの国境線は民族・宗教の違いを配慮せず線引きされ、分断や強引な統合が紛争の火種となった。
- アフリカの国境問題と同様に、植民地後の民族不満や権力争いを複雑化し、内戦や民族紛争を誘発。
南アジアの国境線争いは欧米列強が植民地支配の都合で決めた人工的な国境が根本にあり、その影響はインド・パキスタン関係だけでなく中国との国境問題にも広がっています。
このように南アジアとアフリカは、欧米列強が民族的配慮を欠いた形で国境を設定したことによる共通の紛争構造を持つ地域と言えます。
植民地時代に決められた南アジアの国境の具体例
- インド・パキスタン国境(ラドクリフ・ライン):
1947年のインド分離独立の際、宗教別にインド(ヒンズー教多数)とパキスタン(イスラム教多数)に分割するため、イギリスが外部の弁護士シリル・ラドクリフに委ねて引かれた国境線です。インドのパンジャーブ州とベンガル地方が分断され、大規模な人口移動と暴力紛争を引き起こしました。この国境線は独立直前まで公表されず、慌ただしく決定されたことも混乱に拍車をかけました。 - ネパールの境界:
南下するロシアの影響力拡大を警戒したイギリスが、ヒマラヤ山脈沿いのネパールに対して軍事的圧力(グルカ戦争)をかけ、領土の一部割譲や外交権制限を通じて影響力を強めました。ただし完全な植民地化は避け、緩衝地帯として扱いました。 - スリランカ(セイロン島)の植民地支配:
ポルトガル、オランダ、イギリスが時代を追って支配権を獲得し、19世紀にはイギリスの直轄植民地となりました。これに伴い行政区画も植民地支配体制で再編されました。 - 南アジア植民地支配の拠点争い:
イギリスとフランスが17・18世紀に南アジアで争い、英領インドの領土を増やす過程でマドラス、カルカッタ、ポンディシェリー、シャンデルナゴルなどの拠点確保をめぐって競合しました。1763年のパリ条約でフランスの拠点を一部認めながらも広域支配をイギリスが確立し、後の国境形成に影響を与えました。
これらの例はいずれも植民地支配の都合で地理的・民族的実態を十分に配慮せず線引きされ、その後の地域紛争や民族分断の要因となりました。中でもラドクリフ・ラインは現在のインド・パキスタン・バングラデシュの国境に直結しており、国際的にも重要な事例とされています。植民地時代に決められた南アジアの国境の具体例として有名なのは以下のものです。
- インド・パキスタン国境(ラドクリフ・ライン):
1947年のインド独立と同時にイギリスが引いた国境線で、宗教を基準にヒンドゥー教多数のインド、イスラム教多数のパキスタンに分割しました。特にパンジャーブ地方とベンガル地方が分断され、多数の住民が強制的に移動させられました。境界線は独立直前に発表され、急ごしらえのため混乱と紛争の大きな原因となりました。 - ネパールに対するグルカ戦争(1814年頃):
イギリス東インド会社が南アジアで勢力を拡大する中、ネパールとの国境を巡って戦争を起こし一部領土を奪取しました。ネパールは完全植民地化は免れたものの影響下に置かれ、インドとチベットの間で緩衝地帯として扱われました。 - スリランカ(旧セイロン島):
17世紀から18世紀にかけてポルトガル、オランダ、イギリスが植民し、19世紀にはイギリスの直轄植民地となりました。これにより行政区分もイギリスの植民地体制に基づいたものに変わりました。 - 植民地拠点争いによる国境設定:
イギリスとフランスがインドで17〜18世紀に拠点を争い、1763年のパリ条約でフランスの拠点を限定しつつイギリスが支配を確立しました。これが後の南アジアの国境確定や紛争の背景となりました。
これらはいずれも植民地時代の欧米列強が民族・宗教を十分に考慮せずに決めた国境線が多く、南アジアの現在の複雑な国境問題や紛争の基盤となっています。

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