ジェシー・リバモア 成功と破産を繰り返した投機家


ジェシー・リバモア。
マサチューセッツ州シュルーズベリー(Shrewsbury)出身

1907年10月24日、NY市場が金融崩壊の危機に陥ったときJ・P・モルガンより市場救済の要請を受ける。J・P・モルガンは「トラストのトラスト」と呼ばれており、十数社の鉄道事業者を買収し再編、GE、USスチール、AT&Tなどを設立し、当時のアメリカで絶大な権力を誇っていた。このときリバモアは大量の売りポジションを持っており、もし彼が売り続ければNY市場は本当に崩壊しかねない状態であった。
これを受け翌10月25日の朝、リバモアは猛然と買い戻しに入り、主要なあらゆる株をも買い捲る行動に出た。これをきっかけに市場の流れは変わり、暴騰相場が始まった(しかし一方でリバモアは、買った株を同日密かに売り抜けていた)。銀行家達は、リバモアの愛国的な行為に感謝した(彼は愛国心から買いに回った訳ではなく、銀行団が資金提供に合意したとの情報を得て買いへの転向を決めたという説もある)。

  • 農業を継がせようとしていた父に反発し、母の手助けにより14歳で家を飛び出した。15歳よりボストンで合百(バケットショップ(bucket shop)株式市場外で賭博のような株取引を行うところ。当時、アーノルド・ロススタインを筆頭とするギャング達が仕切っていた)で取引を始め、1000ドルの資金を作った時から彼の投機家としてのキャリアが始まった。1897年、 ニューヨーク・ウォール街にて取引を開始するも6ヶ月足らずで破産する(1度目の破産)。
  • 1901年、強気の相場に乗り5万ドルの資産を作る。その後、この5万ドルを空売りに投じる。株価が下落するという彼の読みは正しかったものの注文の執行タイミングが遅れたため、直後の株価の反騰の波に飲まれ、同年5月に2度目の破産
  • 1907年、2度の破産から立ち直り、100万ドルの資産を保有するようになる。
  • その後リバモアは、「コットン・キング」の異名を持つパーシー・トーマスの勧めでコットン市場にも手を出すようになる。しかし1908年、コットン相場の大暴落で綿花の買い占めに失敗、莫大な負債を抱えることになる。負債を抱えながら投機を続けることに限界を感じたリバモアは、債権者一人ひとりに「再起したら必ず負債は返す」と約束してまわった上で1915年2月18日、破産を申請、受理される(3度目の破産)。
  • 破産が確定して精神的に開放されたリバモアは再び市場で勝ち始め、1917年に債権者達に負債を完済する。
  • 1929年9月4日、暗黒の木曜日に向けた空売りを行ない、1億ドル以上の利益をあげる。
  • 1934年3月5日、4度目の破産
  • 1940年11月28日、ニューヨークのホテルの一室で「どうしようもない。事態は悪くなるばかりだ。私は戦うのに疲れた。もう続けていけない。私にはこれしか方法がない。私は君の愛には値しない。私は失敗者だ。本当にすまないが私にはこれしか方法がないのだ」と書かれた遺書を妻に残し、ピストル自殺を遂げた。晩年はうつ病を患っていた。
  • 彼が死に際して残した信託と現金は500万ドルにのぼっていた。

ジェシー・リバモア – Wikipedia