日本の同性愛の歴史

ガーナで反LGBTQ+法が成立 「発信」だけでも最大10年の懲役

  • アフリカで同性愛厳罰化が進む背景

ガーナをはじめとするアフリカ諸国で、同性愛の厳罰化(反LGBTQ+法の成立)が進む背景には、大きく分けて3つの要因が存在します。

経済の停滞や食糧不足に起因する社会的な不満が、マイノリティへの攻撃へと向かう現象が見られます。

さらに、アフリカで急激に信者を増やしているキリスト教福音主義(ネオ・ペンテコステ派など)の台頭が、法規制の強力な推進力となっています。

これらに加え、米国の政権交代による外交方針の変化や、米国の保守系団体による現地への支援が、規制強化を後押しする国際的な要因となっています。

深刻な経済停滞と社会的不満の矛先

アフリカ各地での厳罰化の第一の背景には、国民の深刻な生活苦があります。

新型コロナウイルス流行後の経済停滞に加え、各地での紛争や異常気象が重なり、アフリカ全体で人口の約1割に相当する約1億6700万人が食糧不足に直面していると試算されています。

このように社会全体に強い閉塞感や不満が溜まった際、その矛先がLGBTQ+などの特定グループに向けられ、政治的なスケープゴート(身代わり)として利用されやすい状況が生まれています。

キリスト教福音主義の急速な普及

第二の背景は、宗教的な影響力の増大です。

ガーナで今回の法案成立を主導した議員がネオ・ペンテコステ派の牧師であるように、キリスト教の福音主義勢力が各国の政界に深く関与しています。

これらの宗派は、生活苦にあえぐ民衆の間で近年急速に支持を広げており、伝統的な家族観を重視する立場から、LGBTQ+への法的な規制を一貫して推進しています。

米国の政治変動と保守団体の関与

第三の背景として、国際社会、特に米国の政治動向の変化が挙げられます。

過去に同様の法案が浮上した際は、米国のバイデン政権による外交的な圧力や反対もあり、当時の大統領が署名を見送るなどの抑止力が働いていました。

しかし、その後のトランプ政権への移行に伴い、米国政府によるこうした動きへの反対姿勢が弱まりました。むしろ、米国の保守系団体がアフリカ現地の活動家や政治家と連携し、規制強化に向けた協力を提供している実態が指摘されています。

 

 

日本の同性愛の歴史

日本の同性愛の歴史は、時代によってその社会的受容や位置づけが大きく変化してきました。古代から近世(江戸時代)にかけては、主に貴族、僧侶、武士の間で「男色(なんしょく)」として公然と認められ、文化や芸術の一部として洗練されていきました。しかし、明治時代の近代化の過程で西洋の道徳観や医学的見地が導入されると、同性愛は「異常」や「犯罪」とみなされるようになり、抑圧の時代を迎えます。戦後はタブー視されつつもサブカルチャーの中で独自の発展を遂げ、現代においては人権や法的な権利保障の観点から再評価と法整備を求める動きが進んでいます。

古代から中世における男色の始まりと展開

日本の歴史において、同性間の恋愛や性愛に関する最も古い記録は、平安時代の貴族社会や寺院に見られます。

平安時代の貴族社会では、男性貴族の間で同性愛関係が存在していました。これは当時の日記などの記録に残されています。

同時期、仏教の広がりとともに寺院内でも男色が盛んになりました。女性の立ち入りが禁じられた山寺の僧侶と、給仕や雑務を行う少年(稚児:ちご)との間の関係は「稚児愛」と呼ばれ、単なる性愛にとどまらず、宗教的な意味付けや文学的な美化がなされることもありました。

鎌倉時代から室町時代にかけて武家社会が台頭すると、この風習は武士の間にも広がっていきました。

戦国時代から江戸時代における「衆道」の確立と大衆化

戦国時代には、主君と若き武士(小姓:こしょう)の間の強固な絆を背景とした男色関係が定着しました。これは単なる恋愛関係ではなく、戦場における忠誠心や命を懸けた信頼関係と結びついていました。織田信長と前田利家や森蘭丸、武田信玄と春日源助などの関係が有名です。

江戸時代になると、この武士の間の男色は「衆道(しゅどう)」という独自の倫理や道徳を伴う武士道の精神として体系化されました。

また、江戸時代中期以降は都市文化の発展に伴い、衆道は庶民の間にも広がっていきました。歌舞伎の若衆(わかしゅ)や、陰間茶屋(かげまぢゃや)と呼ばれる男性の売春宿が登場し、商業的な性風俗としても定着しました。井原西鶴の『男色大鑑』などの文学作品にも、当時の男色文化が生き生きと描かれており、社会的に広く認知され、許容されていたことが伺えます。

明治維新による西洋化と抑圧の時代

明治時代に入ると、政府は富国強兵と近代国家への脱皮を目指し、西洋の法律、医学、道徳観を急速に導入しました。これにより、日本の同性愛に対する社会の視線は劇的に変化しました。

1872年(明治5年)、明治政府は新律綱領の改訂により「鶏姦罪(けいかんざい)」を設け、同性間の性行為を初めて犯罪として処罰の対象としました。この法律は1882年(明治15年)施行の旧刑法で廃止され、それ以降、日本の刑法において同性愛そのものを処罰する規定は存在していませんが、社会的な抑圧は強まりました。

また、近代医学(精神医学)の導入によって、同性愛は「治療すべき精神疾患」や「変態性欲」として位置づけられるようになり、それまでの伝統的な寛容さは失われ、不道徳なものとしてタブー視されるようになりました。

戦後のサブカルチャーの発展と現代の権利擁護

第二次世界大戦後も、同性愛に対する一般的な偏見やタブー視は長く続きました。しかし、その一方でメディアやサブカルチャーの領域で独自の発展が見られました。

1950年代からは『奇譚クラブ』などの風俗雑誌の中で同性愛に関する言説が登場し始め、1970年代には日本初の商業的なゲイ雑誌『薔薇族』(1971年創刊)が誕生しました。これにより、当事者間のコミュニティや情報交換の場が形成されるようになります。また、女性向け漫画(少女漫画)の分野では「少年愛」や「BL(ボーイズラブ)」というジャンルが確立され、表現文化として定着していきました。

1990年代以降、国内外の人権意識の高まりを受けて、日本でもLGBTQ+などの性的マイノリティの権利擁護運動が本格化しました。1997年の東京都による「府中青年の家」裁判の判決(同性愛者への差別的取扱いの違法性を認めた裁定)は、法的な転換点となりました。

現代においては、多くの自治体で「パートナーシップ宣誓制度」が導入され、国に対しても同性婚の法制化を求める裁判が全国各地で起こされるなど、法的な平等の実現に向けた議論が現在も続けられています。

 

 

稚児は子どもがイヤがっていたケースがある

ご指摘の通り、中世の寺院における稚児愛(男色)のなかには、本人の意思に反して行為を強要されたり、子どもが深く苦しんだりしていたケースが確実に存在します。当時は現在のような「子どもの人権」という概念がなかったため、大人側の権力や宗教的な大義名分のもとで理不尽な状況に置かれる子どもたちがいました。

稚児が嫌がっていたことを示す具体的な記録

中世の寺院の様子を伝える文献や日記、あるいは当時の物語には、稚児が肉体的な苦痛や精神的な苦悩を感じていたことが生々しく記録されています。

当時の貴族や僧侶の日記には、夜間に僧侶が稚児の部屋に押し入った記録や、稚児がそれを拒んで逃げ回った、あるいは泣いて嫌がったという記述が散見されます。

また、仏教の因果応報を説く「説話集」の中には、稚児が嫌がっているにもかかわらず、僧侶が権力や力づくで関係を迫る場面が描かれているものもあります。これらは、当時の僧侶たちの戒律破りや強欲さを批判する文脈で書かれることが多かったものの、現実の稚児たちが置かれていた過酷な状況を裏付ける証拠となっています。

権力関係による拒絶の難しさ

稚児の多くは、有力な武士や貴族の家系から寺院に預けられた少年たちでした。寺院の中では、高位の僧侶(師匠など)と見習いである稚児との間に絶対的な上下関係が存在していました。

そのため、少年たちがいくら嫌であっても、自らの出世や実家の立場、あるいは寺院内での生存を考えると、大人の要求を明確に拒絶することは極めて困難な環境にありました。美化された文学作品の裏には、こうした非対称な権力構造による強制が存在していたのが実態です。

精神的・肉体的な苦痛

当時の文学や記録からは、稚児たちが単にその行為自体を嫌がっていただけでなく、以下のような複合的な苦痛を感じていたことが分かっています。

  • 肉体的な苦痛と健康被害:
    身体が未成熟な少年たちにとって、大人の男性との性的な行為は激しい痛みを伴うものであり、時に負傷や病気の原因にもなりました。
  • 精神的な孤立:
    寺院という閉ざされた社会の中で、親元を離れた少年たちが誰にも相談できず、深い孤独や精神的なストレスを抱え込んでいたことが、当時の和歌や手紙の記述から読み取れます。

日本の男色の歴史において、稚児愛はしばしば風流な文化や美しい物語として語られがちですが、その実態には、子どもの意思を無視した搾取や虐待に該当する側面が明確に含まれていました。

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