ブラジル日系移民の歴史

5分でわかる日本・ブラジル移民交流100年の歴史

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ブラジルへ渡った記録映像作家の旅
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ブラジルは世界最大の日系人居住地であり、過去百年間で13万人の日本人がブラジルに移住した。

日系ブラジル人 – Wikipedia

全米日系人博物館 – Japanese American National Museum

ロサンゼルスでもっとも行ってほしい場所

ぜひ行ったらどうかなって思うところがあって。日系人博物館。日系移民の人たちの辛い歴史や努力がわかるように展示されているところ。

日系人は最初はすごく虐げられていてね。今こうしてアメリカで暮らせているのは、そういう人たちのおかげだから。できれば、ふたりにもそういう歴史を知ってもらえたらなあ、って。
19世紀半ばまではドイツ系移民の街として「リトル・ベルリン」と呼ばれていたのだそう。しかし19世紀末に数万人の日本人がここに移住してきた。それからしばらくして「リトル・トーキョー」と呼ばれるようになった。

日系人移民が集団でロサンゼルスに住み始めたのは19世紀からだけど、20世紀になるとますます多くの日本人が移住してくるようになったという。

今でこそ、わたしたちのように大した覚悟もなく世界一周できるようになったけれど、当時は海を渡って異国に行くなんて並大抵の覚悟ではできなかったと思う。アメリカがどんな国なのかさえイメージが湧かなかったはず。日本に二度と戻れなくなるかもしれないし、友人や親戚にも会えなくなるかもしれない。

アメリカという新天地で、ゼロからの生活。日系人たちは漁業や林業に従事したり、鉄道敷設の肉体労働や農園や工場などで働いた。そして、日本人持ち前の真面目さと忍耐強さと一生懸命さとで、自分たちの生活を軌道に乗せ、暮らしを豊かにしていったという。経済的にも成功を収めていった日系移民。しかし、日系人にとって暗黒の時代がやってくる。

文化や肌の色が違う日系人を排斥しようという動きが出始めた。土地の所有を制限したり、移民の受け入れをやめたり。

「学校に、日本人はお断り」黒人に行われていたような人種差別が日系人にも行われていたなんて。自分たちの生活がうまくいってないと、その欲求不満を移民に向ける。生活がうまくいかないのは、移民のせい。なんか、今の情勢ととても似ている。

日本がハワイの真珠湾を攻撃し第二次世界大戦が始まると、それはますます激しくなった。スパイ扱いされて、家に「捜索」という名目で立ち入られ荒らされることもあった。嫌がらせとしか言いようがない。

1942年、日系人への移動禁止命令がなされ、それから立ち退きが強制執行された。日系人は財産を没収され、連行されて強制収容所に入れられることになる。

アメリカに10箇所ほどあったという収容所。その中の一つマンザナー強制収容所(マンザナール日系人収容所)の模型も展示されていた。アメリカ全土ではおよそ12万人の日系人が収容所送りとなった。マンザナー収容所では、多いときで1万人の日系人が収容されたという。模型を見ると、ナチスがユダヤ人を収容したアウシュビッツ収容所を思い出してしまう。

マンザナー収容所は、ロサンゼルスからおよそ350キロ離れた北に位置する。鉄条網で囲まれ、監視塔で見張られた。博物館には収容所のバラックが再現してある。日系人たちは、ここで肩を寄せあうように過ごした。マンザナー収容所はシエラネヴァダ山脈の麓にあり、冬はとても冷える場所。

現在マンザナー収容所の跡地は国定史跡となっていて、資料館や収容所を再現した建物、慰霊塔などが建てられていて訪問できるようになっている。ロサンゼルスからだと車で3時間ほど。
4年間もの間、収容所に閉じ込めれた日系人たち。収容所で命を落とした人たちもいる。解放されても、彼らには辛い現実が待ち受けていた。家に帰ると、壁には落書きがされ、室内は荒らされいる。家財道具や大切なものが奪われている。日本からはるばるやってきたアメリカ。努力と苦労を重ね、ようやく自分たちの生活を安定させたと思ったら、収容所に入れられて。やっと戻った家はぐちゃぐちゃ。

日系人への差別は根強く、財産もない状態で大変だったと思う。日系人への偏見や侮辱を払拭するのに、功績を挙げた人たちがいる。収容所の日系人によって構成された第442連隊戦闘団。祖国日本の敵軍の一員になって戦わなければならない現実。それでも、日系人として不当な扱いを受け続けた彼らは、この状況から抜け出したい、「アメリカ国民」として認められたいという気持ちもあり、入隊したのだろう。第二次大戦中ヨーロッパの戦場に送り込まれ、「当たって砕けろ!」をスローガンに最前線で果敢に戦った部隊。他の部隊の3倍の死傷率を記録したという。1942年、テキサス大隊がドイツ軍に包囲されたときは、大統領によって救出命令が442連隊に下された。激戦の末211人のテキサス大隊を助け出すために442連隊の216人が命を失ってしまった。442連隊は、アメリカ史上もっとも多くの勲章を受けたという。