極東のロシア人はルーツがウクライナ。田舎には未だにウクライナ語の道路標識

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極東ロシアに住む人々の多くは、歴史的にウクライナ移民の子孫

極東ロシアに住む人々の多くは、歴史的にウクライナ移民の子孫であり、1870年から1917年にかけてウクライナ人が極東ロシアの肥沃な地域に移住・開拓しました。この地域は「緑のウクライナ」と呼ばれ、当時は100万人以上のウクライナ人が農村人口の中心となっていました。ウクライナの村や川の名前をそのまま使った地名も多く残っており、文化的にもウクライナの影響が強かったことが知られています。

また、極東の田舎地域にはかつてウクライナ語の道路標識も存在していた記録がありますが、現在はロシア語が主流です。これは歴史的なウクライナ人入植の影響によるもので、極東ロシアのウクライナ系コミュニティが独自の文化や言語を維持していた名残といえます。

 

 

ウクライナ人の自発的な移住だったとは言い切れない

極東ロシアにおけるウクライナ人の移住は、1870年から1917年の期間にロシア帝国政府の政策として促進されたものであり、完全に自発的なものとは言い切れません。1861年に発布された農奴解放令によって、当時のウクライナ地域の農奴たちは農地を得ましたが、その土地は非常に小さく満足できないものでした。そこでロシア帝国は「南部(ウクライナなど)から極東への家族ごとの移住で大きな農地がもらえる」と宣伝し、移住を奨励しました。このため、多くのウクライナ人が経済的な理由や土地不足から極東へ移住しています。この移住は国の政策に背中を押された形での移動であり、自発的な動きと国家の誘導が混ざったものと言えます。

極東に到達したウクライナ人は、肥沃な土地に定住し「緑のウクライナ」と呼ばれる地域社会を形成しました。これは自発的な移住とは異なり、ロシア帝国による積極的な開拓政策の一環であったことが背景にあります。​

したがって、極東へのウクライナ人の移住は、経済的な環境の制約や農地不足からの脱却を求めた側面と、ロシア帝国の拡大政策および居住促進策により促された側面が複合的に絡むものです。

 

 

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