捏造の歴史 中国 韓国 北朝鮮

おとなの教養 私たちはどこから来て、どこへ行くのか?
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そこで韓国においても、コンプレックスをはねのけるために、現在の韓国政府は上海につくられた臨時政府を維承するものとしています。これは韓国の憲法にも書かれているし、韓国の若者たちはそういう歴史を学んでいます。つまり上海にあった臨時政府が、日本と日本の支配に対して戦ってきた結果現在の韓国があるという歴史をつくり出したのです。これは北朝鮮のような歴史の担造とまでは言えませんがきわめて主観的な史実をつくり出している点では変わりません。北朝鮮にせよ韓国にせよ、日本に職争で腸利した結果、誕生したということを強調しているのでこれは結果的に反日教育になります。いかに日本が残虐なことをしたかを強調する歴史が語られることになるわけです。日本はたしかに朝鮮半島を支配していたわけですし、支配の過程でひどい振る舞いもありました。それは事実でしょう。でも、韓国側から新しい歴史が書かれていくと、それが極端に強調されて、とんでもない非人道的な支配だったということになるのです。

政治的意図による歴史づくり 中国の例

中国においても歴史は書き換えられました。戦争中「国共合作」というて国民党と共産党が緒になって日本の侵略と戦うことになりましたが、その実態は国民党が主体の戦争でした。共産党は、国民党と日本軍を戦わせ両方を弱体化させ、白分たちが漁夫の利を占めようという戦略を採っていたのです。共産党軍の将軍が日本軍と真正面から戦って勝利を収めたときに、毛沢東から怒られたという話もあります。「なぜそんな無駄なことをするんだ。われわれの仲問が減るじゃないか」と。ですから国共合作といっても、実際に日本軍と戦ったのは国民党が中心でした。だからこそ国民党が弱くなり、やがてソ連からの武器の援助を得た共産党軍が勝利を収めるという歴史があるわけです。中華人民共和国というのは共産党が国民党に勝って築き上げた国です。国民の選挙で選ばれたという政治的正統性はありません。

たとえば北朝鮮の建国の歴史というのは、いわば建国神話と呼ぷべきものになっています。北朝鮮では金日成という絶対的な指導者が日本の植民地支配時代から朝鮮半島で日本軍と戦い続け、遂には勝利を収めて北朝鮮という国をつくったという神話があり、それを国民は覚えさせられています。私たちはそうではないことを知っています。日本が戦争で負けた後、ソ連とアメリカが朝鮮半島に入って来ました。日本が朝鮮半島から引き揚げると北半分にはソ連がソ連式の国をつくりました。それまでソ連軍の大尉としてソ連軍と行動を共にしていた金日成を北朝鮮に連れてきてトップに据えたのです。金日成は戦争末期にはソ連の基地にいて、そこで息子の金正日も生まれているのですから、朝鮮半島で戦っているわけがありません。要するに金日成はソ連の思惑で国づくりをさせられたということになります。これは当人たちにしてみれば、コンプレックスだったことでしょう。自分たちの力だけで国をつくることができなかったからです。このコンプレックスをはねのけるにはどうしたらいいか。そこで、自分たちの力で国をつくったという歴史を生み出すわけです。

実は同じようなことが韓国でも行われています。韓国は、日本の敗戦後に国連の主導で総選挙が実施され、その結果李承晩政権ができたと私たちは習いました。でも実は、日本が朝鮮半島を支配しているころから、上海に韓国臨時政府というものができていました。いわば亡命政権ですが、名前だけで、実体はまったくないものでした。この臨時政府の初代大統領に就任したことがあったのが李承晩です。しかし、李承晩は「臨時政府」の大統領を罷免され戦争が終わるまで朝鮮半島には入っていません。アメリカでさかんにロビー活動をしていたのです。戦争が終わった直後朝鮮半島に戻りロビー活動の甲斐あって大統領の座におさまるのです。言ってみれば李承晩も金日成と同様他国(アメリカ)に連れて来られる形で大統領になったのでした。そうすると、彼らにしても、自分たちの力で国をつくることができなかったコンプレックスを抱えています。

では、どうするか。日本軍と戦い人びとを「解放した」ことに政治的正統性を求めました。なぜ共産党に政治的正統性があるのか。それは日本軍の侵略と戦って勝ち中国の人びとを圧制から救ったからだという歴史をつくりそれを教え込むわけです。日中関係は実は中国の国内問題だとよく言われます。実際、中国で共産党の支配が揺らぐと、そのたびに反日キャンペンが行われます。共産党支配が揺らぐと「日本はひどかっただろう。その日本と戦って人びとを解放したのは共産党だということを忘れてはいけない」というアピールに躍起になるわけです。中国でつくられた公式の歴史では、日中戦争において国民党軍の存在感は非常に稀薄です。でも最近になって中国は台湾との関係に配慮するようになりました。台湾は一時、民主進歩党(民進党)政権でしたが現在はまた国民党政権になっています。中国にしてみれば台湾との関係を改善し将来的には中国に取り込んでしまいたい。そこで、中国国内で今、日中戦争のときの国民党軍の戦い方の再評価が行われています。国民党軍が日本と真正面から戦っていたということをある程度は認めるようになっているのです。これはつまり台湾を巻き込もうという明らかな政治的意図によって歴史の見直しが行われているということです。歴史とは勝者が描いたものであると同時に、その時どきの政治の事情や都合によって、見直され書き換えられるものなのです。

「東京裁判史観」と「大東亜戦争」

この章の冒助で『聖書』や『古事記』の例を挙げながら歴史とは勝者の歴史ではないかということを話しました。北朝鮮韓国はある意味では非常に歪んだ勝利の仕方だったために勝者たちは建国神話を歴史としてつくり上げた。
中国でも勝者の正統性を打ち立てるために自分たちの歴史をつくりました。
日本の現代史にも、勝者の歴史というものが強く反映されています。戦後の日本には「東京裁判史観」という言い方があります。

1946年から48年にかけて行われた東京裁判では勝者である連合国が敗者の日本を裁きました。この裁判によって、戦争中の日本軍による残虐行為が次々に明らかにされます。そのことに国民は大きな衝撃を受けたと同時に、それ以後日本は侵略行為を深く反省しなければならないという歴史観を持つことになりました。こうした歴史観を揶揄した言葉が「東京裁判史観」です。つまり、戦後の歴史観は日本の負の部分ばかりが強調されていると批判する人びとが「東京裁判史観」という言葉を使い出したわけです。東京裁判をどう評価するかという点については今なお意見が割れています。ここではその詳細に立ち入りませんが戦後の日本の歴史観に勝者の側からの歴史観が反映されていることは確かでしょう。たとえば「太平洋職争」という言葉自体、勝者であるアメリカの視点からのネーミングです。日本は中国や東南アジアでも戦争をしていました。当時の日本はこれを大東亜戦争と呼んでいましたが、これもまたアジアに「大東亜共栄圏」をつくりたいといつ日本の都合だけでつけられた名前です。このネーミングも決して客観的なものではありません。となると、日中戦争、大陸での戦争、東南アジアでの戦争、太平洋での戦争を全部ひっくるめた呼び方は何でしょうか。最近よく言われるのは「アジア太平洋戦争」というネーミングです。これが現時点で言うともっともイデオロギー色のない呼び方と言えるのではないでしょうか。また、南京大虐殺についても日本では大きな論争になりました。日本軍が南京で30万人以上に及ぶ大虐殺を行ったという見解が中国側から出ました。これも勝者の歴史です。勝者がそういうふうに描いてきたので日本でもそれを鵜呑みにしていた時期がありました。でも実際にその後の研究により南京で何らかの虐殺は明らかにあっただろうが30万人という数字はありえないだろうということもわかってきています。昔だったら勝者の歴史しか残っていませんが、現代ではさまざまな証言や史料を科学的実証的に分折することによって、歴史の見直しも行われているということです。

歴史とどっつきあっていくべきか

また、こうした国々は、自らの血を流して独立を勝ち取りました。そのことに自負心を持っていますから、ことさらに反日を強調して自国のアイデンティティをつくり出す必要はありません。一方、中国は、戦時賠償金は要らないと言いました。日本はその代わりに、戦後ずっとODAとして莫大な援助を続けてきた歴史があります。でもそのことは中国の人たちに知らされていないのです。韓国に対しては1965年に日韓基本条約を締結した際に賠償金ではなく「経済協力」「独立祝い金」という形で莫大なお金を渡しました。お金の名目はあいまいでしたが意味合いとしてはお詫びの印として渡したわけです。このお金によって韓国経済が発展したわけですが、韓国の人たちはそういう認識を持っていません。前章でお話ししたように、中国と韓国は建国神話にもとづいて反日救育を行ってきたという経緯があります。東南アジアではそういう教育はありません。反日維育をしているかどうかが、現在の日本との関係にも大きく影響しているのです。
他者との関係から自分、自国を認識する

「日木」「日本人」というものの実体は過去にさかのぼるほどあやふやになっていく。でも時に上から押しつけられたり、他国を鏡にして自らを見つめ直したりすることで、私たちは日本人であることを自覚する。「ない」と「ある」の問を行ったり来たりしている感じがしますね。だから、自国の認誠というのは大変難しいのです。でも、一人ひとりの人間にも、同じようなところがあるのではないでしょうか。自分とはどういう存在なのか、自分の中だけで考えていても、わからなくなってしまっことがあるでしょう。他者とのかかわりの中で、初めて自分が何者かが見えでくることがありますね。それこそ、私たちがたった一人で生まれ、育っていたら、自分の名前という発想はありません。他者がいて、他者と比較することで、白分の名前というものを意識するようになるのです。