イランデモ、イスラム体制を支持してきた商店主が火付け役に これが重要な理由
バザーリの変心がイラン情勢において重要な理由
イランで発生している反政府デモにおいて、商店主層「バザーリ」が火付け役となったことは、現体制にとって極めて深刻な事態を意味します。バザーリは単なる商人の集まりではなく、イランの政治・経済・宗教が交差する中心地に位置する、歴史的に強力な社会階層だからです。
バザーリが今回のデモに関与したことがなぜ重要なのか、その専門的な背景を分析し、いくつかの側面から詳しく説明します。
1. 歴史的な「キングメーカー」としての役割
バザーリは、イランの近代史において政権の命運を握る決定的な役割を果たしてきました。19世紀末のタバコ・ボイコット運動や、20世紀初頭の立憲革命においても、彼らは大きな影響力を行使しました。
特に重要なのは1979年のイスラム革命です。当時の国王(シャー)の近代化政策に反発したバザーリは、ホメイニ師を中心とする聖職者勢力と強固な同盟を結びました。彼らが資金提供を行い、市場を閉鎖してストライキを断行したことが、国王体制を崩壊させる決定打となりました。現在のイスラム体制は、いわばバザーリの全面的な支援によって誕生したといっても過言ではありません。
2. 体制の支持基盤の崩壊
イスラム革命以降、バザーリは現体制の最も忠実で保守的な支持基盤と見なされてきました。彼らはイスラム法学者の統治を経済的に支え、社会的な安定をもたらす「守護者」の役割を担ってきました。
しかし、そのバザーリが抗議活動に転じたということは、現体制が身内からも見放されつつあることを示唆しています。最も信頼していた支持層が反旗を翻したことは、体制の正当性が根底から揺らいでいる証拠であり、政府にとっては若者や知識層によるデモ以上に脅威となります。
3. 経済問題が政治的生存を脅かしている現状
今回のデモの直接的なきっかけは、中央銀行によるドル供給制度の変更と、それに伴う通貨価値の下落です。バザーリにとって、輸入コストの増大や価格設定の混乱は、死活問題となります。
伝統的にバザーリは「政治的自由」よりも「経済的安定と自律性」を重視する傾向にあります。その彼らが店を閉め、通りに出て抗議するということは、現体制の経済運営がもはや彼らの事業を維持できない限界点に達したことを意味します。生活に直結する不満が、長年の忠誠心を上回ったという点が、事態の深刻さを物語っています。
4. ネットワークを通じたデモの拡大力
バザーリはイラン全土の都市で網の目のようなネットワークを持っています。彼らが動くことで、物資の流れが止まり、市民の日常生活に多大な影響が及びます。
また、商店主たちがデモを主導、あるいは支持することで、デモは一部の過激な層による運動ではなく、市民社会全体の「正当な要求」としての重みを持つようになります。彼らの店が閉まることは、それ自体が政府に対する強力な無言の圧力となり、他の社会階層を抗議運動へ引き込む呼び水となるのです。
イランの近代化政策は何が悪かったのか?
1979年のイラン・イスラム革命に至るパフラヴィー朝(シャー)の近代化政策、通称「白色革命」がなぜ失敗し、何が悪かったのかについて、専門的な観点から分析・説明します。
この政策の根本的な問題は、社会の基盤や伝統を無視した「上からの強権的な近代化」が、経済・社会・宗教のあらゆる面で深刻な歪みを生んだことにあります。
急進的な農地改革の失敗と都市部への人口流入
近代化の柱であった農地改革は、地主から土地を買い上げ小作農に分配するものでしたが、結果として農業生産性を低下させました。
分配された土地が少なすぎて自立できない農民が続出し、さらに地主が担っていた灌漑施設の管理や資金供給のシステムが崩壊したため、多くの農民が離農を余儀なくされました。
行き場を失った農民たちは仕事や生活の糧を求めて都市部(特にテヘラン)へ大量に流入し、劣悪な環境のスラム街を形成しました。これが後に革命の主要な推進力となる「都市下層民」を生み出す原因となりました。
石油バブルによるインフレと貧富の格差
1973年の石油危機以降、イランには膨大なオイルマネーが流れ込みました。国王はこの資金を軍備の増強や巨大な産業プロジェクトに投じましたが、これが猛烈なインフレを引き起こしました。
物価の高騰は一般市民の生活を直撃し、一方で恩恵を受けるのは王族や一部の政商に限られました。
この極端な富の偏在と汚職の蔓延が、国民の不公平感を爆発させる決定打となりました。
イスラム的価値観の軽視と世俗化の強要
国王は、西洋化こそが国家の進歩であると信じ、伝統的なイスラム的価値観や慣習を「遅れたもの」として軽視しました。
公共の場でのヴェールの禁止や、暦をイスラム暦からペルシャ帝国暦へ変更するなどの政策は、保守的な民衆や宗教界(ウラマー)の激しい怒りを買いました。
宗教勢力は教育や司法における特権を奪われたことで、反政府運動の中核となり、パリに亡命していたホメイニ師が象徴的なリーダーとして祭り上げられる土壌が整いました。
強権政治による政治的自由の抑圧
経済や社会の近代化を進める一方で、国王は政治的な自由を一切認めませんでした。
秘密警察「サヴァク(SAVAK)」を用いた徹底的な言論弾圧や拷問、反対派の投獄は日常化していました。
知識層や中産階級までもが政治参加の道を閉ざされたことで、本来は近代化を支持するはずの層までもが国王から離反し、宗教勢力と手を組むという異例の状況が生まれました。
欧米、特にアメリカへの過度な依存
国王の政策はアメリカの強力な後押しを受けており、軍事や経済の専門家として多くのアメリカ人がイランに滞在していました。
これが国民の目には、国王が「アメリカの傀儡(かいらい)」であり、イランの主権と文化を外国に売り渡していると映りました。
反米感情は反国王感情と結びつき、「西欧化=植民地化」という認識が広まったことも、革命がイスラム回帰の形を取った大きな要因です。
結論としての分析
パフラヴィー朝の近代化政策は、インフラや産業の数字上は成長を見せたものの、国民のアイデンティティや生活の実態を置き去りにした「魂のない開発」でした。
急速すぎる変化が社会の摩擦を最大化し、それに対する不満を暴力的に抑え込もうとした結果、全階層を敵に回すという自滅的な結末を招いたと言えます。
イラン革命を防ぐ事はできなかった
今なら原因が分かっているから、対策の余地がありそう。しかし当時はそれができなかった
構造的な視界不良と独裁の罠
おっしゃる通り、現在の歴史的視点から見れば、なぜ失敗したのかは明確です。しかし、当時のパフラヴィー国王の立場や国際情勢を鑑みると、対策を講じるのが非常に困難であった理由がいくつか存在します。
情報遮断による現実認識の欠如
最大の要因の一つは、長年の独裁体制によって国王の周囲が「イエスマン」ばかりになったことです。
秘密警察サヴァクによる監視社会は、国民だけでなく政府高官をも萎縮させました。不都合な報告は国王に届かず、国王は「国民は自分を愛している」という幻想の中に閉じ込められていました。
危機が表面化した時には、すでに国民の怒りは対話で解決できる段階を超えており、客観的な情勢判断ができるアドバイザーも存在しませんでした。
冷戦構造における「開発独裁」のモデル
当時は東西冷戦の真っ只中であり、アメリカなどの西側諸国にとってイランは対ソ連の最前線でした。
アメリカは「共産主義の浸透を防ぐためには、多少の強権政治には目をつぶり、急速な経済成長と世俗化を進めるべきだ」という開発独裁のモデルを後押ししていました。
この国際的なお墨付きがあったため、国王は自らの政策が正しいと確信し、軌道修正の必要性を感じることができなかったのです。
急激な原油価格の高騰という「毒」
1973年のオイルショックにより、イランには予想を遥かに超える外貨が転がり込みました。
本来であれば、この資金を数十年かけて教育や中小産業の育成に分配すべきでしたが、国王はこれを「数年で先進国の仲間入りをするためのチャンス」と捉えてしまいました。
この過剰な資金投入が制御不能なインフレを招きましたが、当時の経済学の知見では、これほど大規模なオイルマネーの流入に伴う社会混乱を予測し、管理することは極めて困難でした。
宗教勢力の組織力の過小評価
国王は近代化教育を進めれば、宗教の役割は自然に消滅していくと考えていました。
しかし、実際には近代化によって疎外された人々が、心の拠り所としてより強くイスラム教に傾斜していきました。
モスクは政府の監視が及びにくいネットワークとして機能していましたが、国王はこれを「古い時代の遺物」として侮り、その政治的な動員力を完全に見誤っていました。
対策のタイミングを逸した決断の遅れ
革命の前夜、国王自身が不治の病(癌)に侵されていたことも影響しています。
心身ともに衰弱していた国王は、強硬策(武力による鎮圧)か、宥和策(改革の約束)かの判断を迷い続け、中途半端な対応を繰り返しました。これがかえって反対派を勢いづかせ、体制の崩壊を早める結果となりました。
歴史を振り返ると、成功の絶頂にあった石油バブルの瞬間こそが、最も軌道修正が必要な時期でしたが、その成功そのものが国王の目を曇らせていたと言えます。

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