「論破する」という表現があります。
日本語で論破すると言うと「誰々を論破する」と、人を目的語にすることが多いのではないでしょうか。 しかしフランス語では、この動詞は「人」を目的語に取る用法のほうが頻度が低いのだと聞いたことがあります。あくまで「議論の対象物」を目的語として、ある問題点や疑問点についてなど「○○を論破する」という使い方をするのだとか。 「人を論破する」のではなく、「論」を破る、「主題を論破する」のです。ですからフランスでは議論は活発になります。
ところが日本では「誰々を論破する」という言い方をします。
「人」を破る。結局、目的は相手を黙らせること、否定することになり、ともすると喧嘩になってしまうのです。 そもそも、その人を論破しても、その人は意見が変わらないのであれば、「論」は変わらないので、論破するということ自体に意味がなくなります。
日本の国会中継を見ても、議論が途中から言い合いになり、相手やその所属政党をなじり、その人の過去の発言をやり玉に挙げて人格否定になり、肝心の議論が深まらない場合があります。それは「人を論破する」ことが目的だからでしょう。
木下ほうかさんのハマリ役で「はい、論破!」と相手を黙らせるイヤミ課長のキャラが大人気です。私も大好きですが、これはあくまでエンタメ。現実の場で使うのはちょっと抑えたほうがいいかもしれません。それは本当の議論にならないからです。これはある意味日本式の「舌戦」です。相手を黙らせ、やり込めることが目的になっているのです。
議論や交渉の場であれば、「自分はこうしたい」というゴールがあるはずです。その人を叩きのめすよりも、本当にしてほしいことを取るのが目的ですから、言ってみれば形の上では負けたように見せてもよいということを、多くの人は意識していないのかもしれません。 「花を取るより実を取る」です。 相手が黙ったから「勝った!」と思っていても、単に「勝手にやらしておけ」と思われているだけで、なんの得にもなっていないのです。
本人は議論ができない。議論における対立が人格否定になる
- よく「日本人は議論ができない」⇔「議論における対立が人格否定になる」という話がありますが、これは教育の問題でしょうか?それとも日本人や日本語の問題でしょうか?
- 日本人に身に付いていない「議論と人格否定は違う」ということ
- 「ちがう意見=敵」と思ってしまう日本人には、議論をする技術が必要だ。