歴史は繰り返す?天安門事件後に江沢民を国賓招聘した日本 その後
- 1989年の天安門事件後、日本が中国にとった外交姿勢とその影響についてまとめます。
天安門事件と日本の対応
- 1989年6月4日、天安門広場で民主化を求めた市民・学生に対し中国共産党政権が武力弾圧を行い、多くの市民が犠牲となりました。
- 西側諸国は中国を強く非難し、経済制裁などの措置を実施しましたが、日本政府は「中国を国際的に孤立させるのは得策でない」として、G7による共同制裁に反対する方針を固めました。
- その後のG7サミットでも、日本は中国の孤立化回避を主張し、新たな制裁措置は見送られました。
江沢民の国賓招聘と対中関係
- 日本は天安門事件を受けて一時凍結していた円借款を1990年11月に解除し、経済協力を再開しました。
- 1998年には江沢民国家主席(当時)を国賓として招聘し、日中関係の「正常化」をアピールしました。
- この日本の対応は、中国の国際社会復帰を後押しし、経済発展のきっかけにもなったと評価されていますが、一方で「中国の人権状況や民主化への圧力が弱まった」「モンスターを作った」といった批判も根強くあります。
その後の影響と評価
- 日本の対中融和策は、短期的には日中関係の安定や経済的利益をもたらしましたが、中国の人権問題や覇権主義的な行動が強まる中、長期的な視点では「歴史は繰り返す」との批判が再燃しています。
- 日本共産党は当時から中国の武力弾圧を厳しく批判し、現在も中国の人権問題や覇権主義に対して国際法に基づく批判を続けています。
- 一方、政権与党(自民党・公明党)は対中批判を抑制し、経済・外交関係を重視する姿勢を維持してきました。
まとめ
- 日本は天安門事件後、他の西側諸国に先んじて対中制裁を解除し、中国の国際社会復帰を後押ししました。その後の中国の経済発展と国際的台頭を考えると、「歴史は繰り返す」という指摘や、当時の日本の選択への再評価が続いています。
トヨタ 中国の怪物 豊田章男を社長にした男
- トヨタ自動車の中国事業を立て直し、豊田章男氏を社長に押し上げた立役者・服部悦雄氏の半生と、トヨタの中国進出の内幕を描いたノンフィクションです。
主人公・服部悦雄とは
- 服部悦雄氏は、戦中に旧満州で生まれ、戦後も家族とともに中国に残り、文化大革命や大躍進政策など激動の中国現代史の中で過酷な体験を重ねた人物です。
- 27歳で帰国後にトヨタに入社し、アジア地域担当として頭角を現しました。
- トヨタ中国事務所総代表として、政府要人との関係構築や中国事業の立て直しに尽力。中国市場で後れを取っていたトヨタを復活させたキーパーソンです。
豊田章男社長誕生の舞台裏
- 1990年代、トヨタは中国市場で大きく出遅れ、苦境に立たされていました。
- 当時の会長・奥田碩氏は、創業家の御曹司である豊田章男氏を中国本部長に据え、中国事業の再建を命じます。これは「章男氏が失敗すれば創業家を経営から外す」という深謀遠慮もあったとされています。
- 豊田章男氏は服部悦雄氏に頭を下げて協力を仰ぎ、服部氏は天津汽車の買収や第一汽車との提携など、水面下で大胆な動きを成功させました。
- この「ウルトラC」により中国事業は急成長、豊田章男氏は副社長に昇進し、2009年に社長就任への道が開かれました。
服部悦雄の「中国の怪物」としての生き様
- 服部氏は、中国での過酷な経験を通じて中国人の本質を理解し、それをトヨタのビジネスに最大限活用しました。
- しかし、日本人からは「中国人」として、中国人からは「日本人」として差別され、社内政治の渦にも巻き込まれます。約束された役員昇進も果たせず、晩年は北京市民になることも叶いませんでした。
- その独断的な行動や創業家との近さから「中国の怪物」と呼ばれ、社内で煙たがられる存在でもありました。
本書の構成と特徴
- 前半は服部氏の中国での苛烈な生い立ち、後半はトヨタ中国事業の再建と社内の権力闘争が描かれます。
- 服部氏へのロングインタビューをもとに、トヨタ最大の秘密ともいえる中国進出と豊田家世襲の内幕が赤裸々に明かされています。
- トヨタをモデルにした小説『トヨトミの野望』にも、服部氏は「中国の怪人」として登場しています。
評価と読みどころ
- トヨタの中国進出、創業家の世襲、社内政治、そして一人の異色のサラリーマンの壮絶な人生が交錯する、企業ノンフィクションの傑作と評されています。
- 中国ビジネスや自動車産業、トヨタの歴史に興味がある読者にとって、知られざる人間ドラマと経営の裏側を知ることができる一冊です。
服部悦雄
- 服部悦雄(はっとり えつお)は、トヨタ自動車の元中国事務所総代表であり、「低迷していたトヨタの中国市場を大転換させた立役者」として知られる人物です。
生い立ちと経歴
- 1943年、旧満州(現中国黒竜江省伊春市)で生まれ、27歳まで中国で過ごしました。
- 中国では毛沢東時代の大躍進運動や文化大革命など、極限の飢餓や過酷な体験を生き抜きました。
- 日本帰国後、1972年にトヨタ自動車に入社。アジア地域の担当となり、豊田英二や奥田碩(元社長・会長)に認められ、頭角を現します。
トヨタでの功績
- 2001年、中国事務所総代表に就任。豊田章男(現トヨタ会長)とともに中国事業を推進し、欧米メーカーに遅れを取っていたトヨタの中国進出を軌道に乗せました。
- 「トヨタを世界一にした社長、奥田碩を誰よりも知る男」「豊田章男を社長にした男」とも評されます。
- 独自の人脈と交渉力で中国共産党幹部と深く関わり、トヨタの中国戦略を主導しました。
人物像と評価
- 日本人でありながら中国で育ち、どちらの国にも「居場所」を見出せなかったという複雑なアイデンティティを持っています。
- 社内では異端児と見なされ、組織に馴染むことはありませんでしたが、その独自性がトヨタの中国進出を成功に導きました。
- 2018年にトヨタを退職。
「僕はね、児玉さん。中国人になりきれない中国人で、日本人になりきれない日本人なんだよ」
このように、服部悦雄はトヨタの中国進出におけるキーパーソンであり、両国の狭間で生き抜いた異色のビジネスマンです。