モンテーニュ「人生はそれほど大したものではない」

皆さんは日々の生活の中でふと人生とは何かと考えたことはありますか?仕事や家庭、社会の期待に押しつぶされそうになりながら生きている私たち。フランスの哲学者モンテーニュにはこう言いました。「人生はそれほど大したものではない」。この言葉の意味とは。そして彼が残した哲学が私たちの生き方にどんなヒントを与えてくれるのでしょうか。モンテーニュの教えを元に人生を軽やかに生きる方法について考えてみたいと思います。

私たちは皆それぞれの人生の重みを抱えながら生きている。経済的な重圧。職場での地位に対する重み。家庭で親として背負う責任の重み。子供として期待に答えなければならない重み。私たちはこうした無数のプレッシャーに押し潰されそうになりながら日々を生きている。しかし人生はそれほど大したものではない。フランスの哲学者モンテーニュはエセの中で人生の重みを軽くし休息のような時間を持つことの大切さを語っている。モンテにはこう言った。「私たちは人生を生きると同時に死へと向かっている存在である。全ては滅び、私はいずれ死ぬ。人間に起る全ての出来事には終わりがある。今どんなに苦しい状況にあってもそれは時間と共に必ず終わる」。辛い会社生活にも出勤する最後の日がやってくる。必死に育ててきた子供たちもいつの間にか大人になり親の元を離れていく。そして人生そのものにも必ず死という終わりが訪れる。死は人生の結末としてすでに決まっている。だからこそ全ての人間は死の前で平等である。死は自然の摂理であり私たちはその大きな流れの中にある小さな一部に過ぎない。裕福な人も貧しい人も皆同じように死を迎える。職業や地位に関係なく人はみな最後にはこの世を去る。長く生きたか短く生きたかそれすらも意味を持たない。モンテーニュには言う。「死んでしまった後に時間の長さなど何の意味もない。もし人間の寿命が100年だとしても宇宙の歴史や数年という自然の時間の流れから見ればそれはほんの一瞬にすぎない。その壮大な時間の流れの中では人間の人生で起こるどんな不幸もまるで風に舞う塵のようなものだ。幸せな人生と不幸な人生など自然の視点から見れば何の違いもない。死は私たちが有限の存在であることを思い出させてくれるものなのだ。私たちは生まれ生きる。しかしそれと同時に私たちは一歩一歩死へと近づいている。死を受け止める生き方には2つの道がある。

  1. 死を完全に忘れまるで永遠に生きるかのように過ごすこと
  2. 死が避けられないものでありいつか必ず訪れることを認識しそれを受け入れて生きること

モンテーニュは言う。「死から逃げることは人生から逃げることと同じだ。だからこそ人は死という事実を真正面から受け入れるべきだ」と。彼は強調する。死は美しい自然の摂理でありそれを直視することでこそ人生の本当の姿が見えてくる。死が近づく時私たちの人生の真実が浮かび上がる。死の間際に何を大切だったと思うのか。どの記憶が、どの人との繋がりが最も尊いものだったのか。その瞬間にこそ自分にとって本当に大切なものが何なのかがはっきりと見えてくるのだ。人生には優先順位がある。私たちは日々の中で何を大切にするのか、何を手放すのかを選び続けている。その選択が私たちの生き方を形づくっている。死という確実に訪れる未来を見据えながらもう一度人生の優先順位を整理してみよう。

人生で後悔していることを打ち明けた老人

あるオーストラリア人の女性が生計を立てるためにイギリスの老人ホームで働きそこで終末期を迎えた高齢者たちの介護をしていた。人生の終わりが近づいた人々は彼女に人生で後悔していることを打ち明けた。彼女は多くの人の話を聞いたが驚くことにその後悔は誰もが共通していることに気がついた。

1つ目の後悔

自分らしく生きることができず、他人の期待に沿った人生を送ってしまった。

2つ目の後悔

あんなに必死に働く必要はなかった。それよりも家族ともっと時間を過すべきだった。

3つ目の後悔

自分の気持ちをもっと素直に表現すればよかった。

4つ目の後悔

友人たちともっと頻繁に連絡を取り合えばよかった。

5つ目の後悔

幸福は結局、自分の選択にかっていた。他人と比べて自分の幸せを判断してしまったことを悔やんでいる。

興味深いことに「もっとお金を稼げばよかった」「もっと大きな家に住めばよかった」と言った財産に関する後悔を口にした人は1人もいなかったという。

「人生はそれほど大したものではない」。この言葉はこうした背景の中で語られる。私たちは今大切だと思っていることをもう1度見つめ直すべきではないか。日々の生活の中で私たちを苦しめ人生を重くする問題や出来事は果たして本当に自分にとって重要なことなのだろうか?もしかすると私たちがただの平凡な日常と思っているものこそ、実はこの世界で最も貴重なものなのかもしれない。なぜなら死の間際に思い出す記憶こそが私たちにとって最も大切なものだからだ。自分が今当たり前のように生きているこの日々こそが実は素晴らしい人生だった。そう気づくことができるかもしれない。結局のところ私たちを苦しめるものや人生を辛くするものは実はとるに足らないものなのだ。もしその苦しみが死ぬ間際に思い出すほどのものではないとしたらそれはきっと大した問題ではないのかもしれない。ではモンテーニュは「良い人生について」どう語ったか。モンテーニュは言う。「死は人生の結末ではあるがそれが人生の目的ではない。死という事実を直視することでよりよく生きるためのヒントが得られるのだ」。そして彼は良い人生についてこう語っている。踊りたい時はただ踊る。眠る時はただ眠る。散歩している時に何か余計なことを考えてしまったらそれを手放しまた歩くことに集中する。休む時は心から休む。モンテーニュにとって「人間にとって最高の芸術とは何気ない日常生活を送ること」だった。権力を持つこと。財産を蓄えること。計画を立てること。それらは人生の本質ではなく単なるおまけにすぎない。人生を楽しむとは今この瞬間をありのままに味わうことを意味する。モンテには未来にとらわれることは時間の無駄だと考えた。人々はまだ訪れてもいない未来の不安に囚われそのせいで今の喜びを台無しにしてしまう。彼は「未来のことで悩み続ける魂こそ不幸な魂である」と言った。私たちが今幸せではない理由は絶えず変わる内面の欲望に振り回されているからだ。それはどれだけのものを持っているかやどれほど物質的に豊かかという問題ではない。しかし人間はこの事実に気づくことなく常に足りない物ばかりを探し求め不満を抱え結果的に不幸になってしまう。モンテーニュが教えてくれるのはこういうことだ。「未来のことを心配するのではなく今この瞬間をしっかりと生きることが幸せの道である」。モンテーニュが強調するのは日常の幸福と自分に得られた時間を満足して生きる姿勢である。これは自分で選ぶことができるものだ。だから裕福であろうとそうでなかろうと全ては自分の心次第。自分は幸せだと思えば幸せになり、自分は不幸だと思えば不幸になる。例えば仕事中毒の経営者に1週間休暇を取って仕事をしないようにと言ったらどうなるか。彼は幸福を感じるどころかむしろ不安で落ち着かなくなるだろう。休息ではなく彼にとっては拷問になるのだ。酒好きの人にとって禁酒は苦痛であり酒が飲めない人にとっては無理やり酒を進められる飲み会ほど不快な時間はない。どのような状況にあるかが重要なのではなくその状況をどう解釈するかが重要なのだ。

モンテーニュ自身も決して恵まれた環境で生きたわけではなかった。彼が生きた16世紀のヨーロッパは歴史史上最も混乱した時代の1つだった。カトリックとプロテスタントの対立が極限まで達し、14世紀に流行したペストの脅威が依然として人々を苦しめていた。このペストはモンテーニュの人生にも大きな影響を与えた。彼が30歳の時生涯の親友であったラボエシを疫病で失った。また彼が市長を務めたボルドではペストによって人口の半数である1万7000人が命を落とした。そんな極限の混乱の中でモンテーニュは人間とは何かを探求し続けた。彼は人間を観察し、思索を深め、その洞察をエセ(随想録)を通じて私たちに伝えてくれた。そして彼はこう語る。「人生はありのままの自分で生きるべきだ。他人の視線を気にするのではなく全ての関心と思考を自分自身に注ぐこと。人生の判断や評価を下す時、他人の基準ではなく自分の内面の基準で決めること。毎日毎瞬外に向いている視線を自分自身に向け「私は何者なのか」を感じることが大切なのだ。私は何が好きでどんなことを考えているのか。その問いに向き合い自分を理解する努力をやめてはならない。私の幸福は私自身が決める。「他人に依存した幸福は、決して本当の幸福ではない」。もし自分の幸せを他人の言動に委ねてしまえば結局自分の手で幸せを掴むことはできない。私が変えられるもの。私が意図できるものは唯一私自身だけだ。私に与えられた時間。私という存在は私だけのもの。他人のための人生など余計なものにすぎない。それを捨て去ることこそが本当の自分を生きることなのだ。モンテーニュは言う。「本当の自分であるためには自分だけの時間と空間を持つことが必要だ」。仕事家庭友人関係社会の中で課せられた義務や役割からほんの少しでも距離を取ってみること。当たり前だと思っていた関係性や自分を縛りつけるものから一歩離れた時、初めて見えてくる本当の自分がある。できれば1年のうち数日、時間を計画し、1人で過ごす時間を持つのも良いだろう。もしそれが難しければ1日のうちたった30分だけでも自分自身と向き合う時間を作ってみてはどうだろうか。他人との約束や旅行の時間を確保できるなら自分自身との約束も本気になれば守れるはずだ。しかし何かが自分を縛りつけ束縛している状態では本当の自分に出会うことは決して簡単ではない。例えば会社で重要なプロジェクトを進めている時。私たちの思考や精神は完全に仕事に支配される。「このプロジェクトはこう進めるべきだ」「あの人とはこうコミュニュケーションを取るべきだ」。退勤後もこうした考えが頭をよぎり常に仕事の延長線上にいる。このような状態では自分自身に完全な注意を向けることは極めて難しい。だからこそ物理的な距離だけでなく精神的な距離も確保し、自分に集中できる環境を整えることが必要なのだ。そうすることで初めて自分自身を正しく見ることができる。自分らしい人生とはそれ自体が面白い人生である。私という存在は人生を通じて自分自身の唯一のパートナーなのだ。もし自分の内側にいるこのパートナーが自分を大切にし愛情を注ぎ尊重してくれる存在であったならた、たとえ世界中の人々に認められず批判されることがあっても最低でも1人だけは絶対に自分の味方である存在を持てることになる。

人生の結末は「死」だ。この事実を直視した時、私たちは本当の現実を理解することができる。死を受け入れることで人生の本当の優先順位を再び整理し、これまで私たちを押しつぶしてきた人生の重荷を軽くすることができる。その後はただ人生を楽しめばいい。今この瞬間を楽しみ、私という存在を最優先にしながら自分だけのパートナーと共に誇りを持って楽しく生きること。それこそがモンテーニュが示した本当の自由なのかもしれない。

モンテーニュㅣ私たちは結局死ぬㅣ死を見つめるㅣシンプルな生き方ㅣ日常こそが最高の芸術

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